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* ゴンドラの唄

日時: 2009/07/16 20:58 メンテ
名前: 名無しさん

 Tell me how he died.――彼がどんな風に死んだのかを教えてくれ。

 I'll tell you he lived.――いえ、私は彼がどんな風に生きたかをお話しましょう。



――エドワード・ズウィック監督作『ラストサムライ』より





" ゴンドラの唄 "





 「幸せスパイラル」を御存知でしょうか。

 幸せというものは不思議なもので宝石や金銀財宝とは違い、一人で貯えてもどうにも真の幸せは訪れません。また言葉というのは不便なもので、差別したいのにどうしても同じ言葉になってしまうのです。なんて言葉とは不便なのでしょう。少々話が逸れましたが、言葉の上での「幸せ」とは本当の幸せではない、と私は言いたいのです。そこで登場するのが先ほど口にしました「幸せスパイラル」です。
 幸せとはできる限り多くの人と分かち合うことによって何倍にも何十倍にも、それこそ計り知れないほどの幸せに辿り着きます。まさに「有頂天に達した」と言わんばかりです。
 逆に不幸は分かち合うことで何分の一、何十分の一にもすることができます。「不幸」は確かに不幸かもしれませんが、元の不幸より小さくなるということはやはり「幸せスパイラル」だと言えると思います。
「お前の不幸はどうするんだ?」
 彼はそう言います。
 その言い方はちょっと卑怯です。何故なら私は人の不幸を望んでいないからです。人の幸せを願う私が、どうして不幸を分け与えますでしょうか。偽善者と罵られても、私はそれだけはできません。
 私がそう言いますと、彼は歯を見せて笑うのです。「お前らしいな」と。私はその笑顔に、ちょっと不愉快な気分になって頬を膨らましますが、次の瞬間そんなことは忘れてしまいました。
「じゃ、半分はもらっといてやる」
 そうやって笑いながら、彼は私の手のひらより大きくごつごつした手を私の頭の上に置くのです。その部分がじんわりと温かくなり、ちょっとだけ気恥ずかしいかったです。彼はいつも意地悪で、たまにそうして優しくしてくれました。

 彼がいてくれたお陰で「幸せスパイラル」理論は、唯一の穴すら埋めてしまえたのです。
 


 ○



 さて、これは私が初めて皆様にお話することです。それは何故かと申されますとそもそも語るに及ばない話であり、更には話したところで無価値なお話だからです。しかしこうして口にしてしまっているのですから、やっぱり私は誰かに話したかったんだと思います。
 私はいつかきっとこの学校を卒業し、進学し、就職し、誰かと出会い、付き合い、結婚して、子供を産んで、育んで、そして死んでいくのでしょう。しかしこれは一般論なのでどこまで通用するかはわかりません。結婚せずに一生を過ごすかもしれないし、結婚相手と既に出会っている可能性だってあります。それどころかいつどのタイミングで死ぬのかもわかりません。私はそれを既に知っていますから、臆面もなく「死」という言葉を使えています。もし抵抗がある方がいましたらごめんなさい。あまり器用ではありませんので、そうしたものをオブラートに包むのが苦手なのです。
 話が逸れましたが、何事も私はそうして生きていくのだと言いたかったのです。しかしそれは今まであったことを全て忘れて生きていくのではなく、全てを抱いて生きていくということです。これから付き合ったり、結婚したりする人に対して不誠実かもしれませんが、やっぱり私は不器用ですので忘れられないと思います。彼の声も、彼の温もりも、彼の笑顔も、彼の優しさも、彼の想いも、彼の強さも――全部全部忘れられないと思います。
 しかしそんなにも想っているというのに私と彼は具体的な関係ではなく、言うなれば後輩と先輩……もしくはチームメイトとチームリーダーぐらいのものでしかありませんでした。それにこのほのかな痛みを言葉にするのにはあまりにも幼く、姿を捉えることができません。やっぱり言葉というものは不便なものです。だからこの想いや痛みは言葉にすることはできず、ただ謂れを考え続ける日々が続くばかりです。
 だから語るに及ばない話ではありますが、口にしたいと考えました。人によっては「じゃあ無価値じゃないじゃないか」と申されるかもしれませんが、この得体の知れない何かの正体がわかったところで何ができるというわけではないので、私は無価値だと申したのです。

 この得体の知れない何かは、ゴンドラに揺られるようにゆらゆらとどこかを彷徨い続けるのです。



 
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* ゴンドラの唄(2) ( No.1 )
日時: 2009/07/16 20:59 メンテ
名前: 名無しさん

 それは出会いと呼ぶのにはあまりにも刹那的で、また一方的なものでした。

 住み慣れた街を離れての寮生活は期待と不安の半々で、それは入寮して数日経ってからの入学式後も同じでした。心配のひとつでしたルームメイトの方はとても可愛らしく優しい人でしたし、クラスの席順も前後になりそうなのでその辺りはよかったな、と思いましたが。しかし何か入りたい部活があるわけでもないし、どんな高校生活になるんだろう……と考えますと、やっぱり心配の種は尽きません。
 入学式の会場である体育館を出ますと、校舎へ繋がる渡り廊下があります。周りには慣れない式典の緊張から開放されたためか、ちらほらと他愛のないお話している人たちを見かけました。この学校は県外からの寮生が大半を聞きましたので、おそらく同じクラスになった人やルームメイトになった人たちなのでしょう。当たり障りのない言葉が青空の下交わされます。
 ひらりひらりと舞う花弁には二つの意味があります。別れを惜しむ陰的要素と、出会いを喜ぶ陽的要素。つい一ヶ月前を思い出しますと少し悲しくなりますが、やはりこれからを思うと胸が高鳴りました。そうした意味で桜という花は今の私にぴったりなものだと思いました。赤でも白でもないピンク色の弁は、悲しみと喜びの色なのだな、とふと考えたのです。
 ふと足を止めますと、見知らぬ誰かが私の肩に触れました。当たり前です、式を終えた人たちが次々と体育館から校舎へ向かっているのですから、まるで雪崩のように人が押し寄せてくるのは必然でしょう。謝りたくて声を掛けようと思いましたが、どの背中も真新しい制服でどの方が私にぶつかったのかがわかりません。歩みを止めてもらおうと頑張って伸ばした腕は所在無く、ぷらりと宙に落ちるのです。
 さて、私が何故足を止めたのか申しますと、まだ式が終わったばかりだというのに桜の下で佇む生徒を見かけたからです。私の記憶違いでなければ緑色のネクタイは私たちの一つ上の学年であり、赤い色のネクタイをした男子学生がまだ周りにいることを考えると、二年生はまだ体育館にいるはずです。ただ単に遅刻したと考えることは易いですが、それなら何故あんなに目立つ場所にいるのでしょうか。こっそり教室に入り、紛れ込んでしまえばおそらくバレることはないだろう、と私は思いましたので、少し気になり足を止めてしまったのです。
 彼は校舎へ向かう新入生たちの目線など意に介さず、ただそこにい続けていました。私がそこで足を止めてから、どれくらいの時が経ちましたでしょうか。何秒、何十秒、何分……次第に退場してくる新入生たちは姿を減らし、そのうちこの空間に私と彼が残されました。いえ、空間と申してしまいますと語弊があるでしょう。空はこんなにも青く、遥か遠くの世界まで繋がっているのですから。
 例えば一枚の絵があるとします。そこに描かれているのは青い空と桃色の弁、それに一人の少女と一人の少年。きっとその絵の空もどこまでも続いているでしょう。それでも人は思うと思います、「一枚の絵」だと。私が「空間」と称したのは、つまりそういうことなんだと思います。
 何も考えていない、何の感慨もなかったと言えば嘘になるでしょう。私は見惚れていましたし、自惚れてもいました。今この一瞬だけはあの人と私が主人公で、これから出会い何かが始まる。そんなことを考えていました。でもそんなことは到底ありえませんし、私の心のどこかも「ありえない」と否定したがっています。それでもやっぱり、人は特別を願わずにはいられないのです。
 桜の木を背にし、ずっと空を見続けた視線が不意に落ちてきます。それは高く高く昇り続けた風船が力なく地上に舞い戻るのと同じように、ふわり、ふわりと降りて参りました。そして落ちた視線が、ふとこちらを向くのです。少々鋭くも感じます目元はじっとこちらを見つめ続け、私の方もどうにも視線を外せなくなってしまったのです。まるで熱に浮かされるようにふわふわと、それこそ風船のように私はその空間に漂い続けるのです。
「……遅かったじゃねえか」
 またどのくらいの時間が経ちましたでしょうか。不意の彼の言葉で、私は突然地上に引き戻されたのです。しかしそれは私の杞憂でしかなく、彼の視線はとうの昔に私ではない誰かを見ていました。その視線の先を追いますと、私と同じ一年生の男女がそこに立っていました。
「ごめん、真人が入学式から爆睡するから怒られちゃってて……」
 そう申し訳なさそうに答えるは後ろに立つ二人の男子生徒より小柄で、少々頼りなさそうな男子生徒です。その言葉を聞いて後ろで照れています、赤いバンダナを巻いた人が"真人"という人なのでしょう。隣に立つ男子生徒は彼のそんな姿を見て、溜息をついています。しかしそこに流れる空気は落胆というより、「やれやれ」といった、妙に慣れたやり取りのような気がしてなりません。
「ま、何にせよ……これで"リトルバスターズ"の復活ってわけだ」
 桜の下に立つあの人が、顔を綻ばせながらそう言いました。

 " リトルバスターズ "

 聞いた覚えがないのに、何故だか妙に懐かしいそのフレーズ。その言葉を聞くと、体育館の入口に立っていた三人の男子生徒が上履きのままで外へ走り出しました。その先にいるのは桜の下に立つ彼です。四人ともまるで小学生のように笑い合いながら、桃色の弁に囲まれるようにじゃれ合っていました。
 謂れはわかりませんが私はその姿を見て、鼓動が高鳴りました。彼と二人きりの空間とは違う、別の高鳴り。子供の頃に玩具を買ってもらった時のような、今までずっと忘れていた胸の鼓動。私はそんな感覚に溺れていったのです。
「……馬鹿ばっかりだな」
 体育館の前に一人立ち尽くしそう呟く彼女もまた、鈴の髪飾りを鳴らしながら彼らと同じように顔を綻ばせていました。







 高校生とは微妙なもので、「大人になった」という気持ちと「大人になりたくない」という気持ちがせめぎ合っているものだったりします。だから私は子供のようにはしゃぐ彼らがとても眩しく映ったのだと思いました――そう、"この時"は。
「……何やってますの、神北さん?」
「ふぇッ!?」
 不意の声に驚き、そちらを振り返りますと、そこには笹瀬川さん――先ほどお話しました、クラスメイトでルームメイトの可愛らしい女の子、笹瀬川佐々美さんがそこに立っていました。しかしその表情……いえ形相と言ってもいいでしょう、それは優しいからかけ離れた、恐ろしいものでした。
「突然いなくなったと思ったら、まだこんなところにいるなんて……HR、始まってしまいますわよ?」
 そうです、すっかり忘れていました。
 色々表現を一転二転させたとしても、ここは私が今日入学を果たした高校の敷地内で、その入学式後に通りかかった体育館から校舎への渡り廊下であることに違いはありません。ということは入学式を終えてから今までのことは現実であって、夢でもタイムリープでもありません。どこの学校でも変わらない、校長先生の退屈なお話と同じように時は進んでいたのでした。
「さ、笹瀬川さんごめんね……?」
「……別に。これも何かの縁ですわ」
 そういうと笹瀬川さんを踵を返し、校舎の方へ向かっていきました。中学生としては珍しく特定のグループに属していなかった私ですが、あるグループの方から聞いたことがあります。彼女のような言動を、"つんでれ"と呼ぶことを。
 "つんでれ"――どういう漢字を書くのか、また謂れ等は存じていないのですが、どことなく甘美な響きがします。それは笹瀬川さんが持つ「厳しさと優しさ」のイメージにぴったりで、思わず「笹瀬川さんって"つんでれ"だよね」と声をかけたくなるぐらいです。しかしそれはなりません、そのあるグループの方がおっしゃるに「人によっては不快に感じてしまう」言葉なのだそうです。この"つんでれ"の漢字すら知らない私にとってそれを見極めるのは至難であり、それなら口にせず黙っておこう……と私は考えました。
 そんなことを考えつつ校舎へ向かい始めたのとほぼ同時に、静寂に包まれていた体育館から、がやがやと表現すべき数多くの声が聞こえてきます。おそらく上級生たちへの指示が終わり、これから教室へと移動するのでしょう。クラスメイトの男子とは違うネクタイの色をした人たちが体育館から出てくるのがわかりました。
「…………」
 もう一度、桜の木の下に目をやります。しかしそこには人影は一つもなく、渡り廊下に立っていた女の子の姿もありません。まるで初めから誰もいなかったように、忽然と四人の少年と一人の少女は私の世界から身を隠してしまったのです。
 でも私は絶対そこにいたんだ……と主義主張を変えません。何故なら彼らの――いえ、彼の笑顔はただ一つの曇りもなく、私の胸にあるのですから。
 そして、同時に思ったのです。
「かーみーきーたーさーんー……?」
「ふぇッ!?」
 ……振り返るとそこには、まるで親の仇を見るような瞳をした笹瀬川さんがおりました。







 そして、同時に思ったのです。
 いつかあの笑顔が、私に向けられるといいな……と。

 今にして思えば、この得体の知れない何かは、そう思うようになってからゆらゆらと彷徨い始めていたのかもしれません。



* ゴンドラの唄(3) ( No.2 )
日時: 2009/07/16 21:01 メンテ
名前: 名無しさん

 さて、彼のことを掻い摘んで話すことは易いです。それは何故かと言いますと、残念ながらその後、私と彼はしばらくお話はおろか、顔を合わす機会さえほとんどなかったからです。しかし考えてみればそれは至極単純なことで、私たちは学年が違うので廊下ですれ違うことすらままならなかったのでした。お陰であの人の顔や声は鮮明に思い出せるというのに、お名前はいつまで経っても知ることができなかったのです。
 しかし意気消沈していたかといえばそうでもなく、むしろ私は生き生きと日々を過ごしていたように思います。確かに新しい生活は不安でしたが、自主性に任される生活は大変ながらもやりがいがありました。少しずつ広がっていった交友関係も、緑が萌える頃には寂しさを感じさせない程度にはなっていきました。しかし勉強に勤しんでも、寮に戻っても、友達と話していても……この胸のどこか奥がチクリ、と痛んでいたのです。
 梅雨に入った頃、席替えがありました。笹瀬川さん――この頃にはもう、さーちゃんと呼んでいたと思います、さーちゃんとは席が離れてしまいましたが、私は窓際後ろから三番目という好条件の席を手中に治めました。夏を間近に控え、元気を増しています太陽さんのメラニン攻撃はジリジリと身を焦がしてくれますが、それでも利点の方が多いと私は感じました。さーちゃんは休み時間のたびに私の席にやってきて、そのたびに私の前の席の主である加藤君(仮)から席を奪い、「この席がよかったですの」とぐてーっと私の机の頬を押し付けるのです。
 さーちゃんは私以外、あまり仲の良い友達はいないように思えました。というより、その言動からなのかソフト部内で一年唯一のベンチ入りメンバーだからなのか、周りが一歩置いているようにも見えました。だからでしょうか、「もっと皆もさーちゃんのことをよく知って欲しいな」と思う反面、こんな風に人前でだらしない姿を見せるさーちゃんを独り占めにしたい気持ちもあったのです。
 そうしたことを含め、この席はとても素晴らしいものだと感じていました。

 そう、この席は素晴らしかったのです。







 私は自分で言うのも難ですが、努力の人間です。中学時代は一応上位成績を修めていましたが、それも努力が成した結果です。ですので先生のお話になる言葉も一言一句逃さずノートに書き留めていましたし、出される課題も試行錯誤を繰り返し、そうしてなんとかこなしていました。なので私があの時、ふと窓の外に目を落としたのも偶然でしたし、またそれに気付いたのも偶然だと思います。運命……なんて大層な言葉は使いたくありません。もしそうだとしたら、人生はなんとつまらないものでしょう、と今の私は思います。でももしかしたら、この時の私はそう感じていたかもしれません。今の私とこの時と私とでは、立場がまるで違いますから。
 さて、それはある日の昼下がりのことでした。
 特に退屈を覚えたわけでもありませんし、先生のお言葉が途切れたわけでもありませんでした。ですから今思い返しましても、何故窓の外へ意識を向けたのかが、どうしても思い出せないのです。強く吹き込んできた風のせいかもしれませんし、じりじりと照り付ける日差しがさせたのかもしれません。しかし何にせよ、私は意識を外に向けたのです。
 そこに彼が立っていました。
 まずは目を疑いました。そもそも授業中でしたので学生がそこにいることがおかしいですし、それが彼である可能性は、そしてそれを私を見つける可能性は、一体どのくらいの可能性なのでしょうか。嬉しいと思うより先に、私はとにかく驚くことしかできませんでした。
 大きく高鳴る鼓動を誤魔化したいのか信じたくないのか、一度目を逸らしました。あまり生徒の授業態度に興味を持たないご年配の先生は、そんな私の気持ちもつゆ知らず、私たちに背を向け黒板にチョークを叩いていました。何を書いているのでしょう……私は目が良い方でしたが、視界がぐわりを歪んでそれは見えません。頭が真っ白になる、とたまに耳にしますが、私はこの時初めてそれを実感しました。言うなれば真っ白になるというより、徐々に淡くなっていくという感覚。意識が遠退いて世界が白みを帯びていく様。とても正気でいられる状態ではありませんでした。
 そうです、こういう時は深呼吸です。授業中にするようなことではありませんが、事態が事態なので仕方がありません。一度大きく息を吸い込みます。酸素がないと頭が回ってくれません。なるべく、なるべく大きく息を吸い込みます。限界だ、と思った時、一気に吐き出しました。が、そうしましたら私の前の席の主である加藤君(仮)の短い髪を揺らしてしまい、恥ずかしい気持ちになりました。当の本人は風に揺らされたと思ったのでしょう、空いた左手で襟足を二度三度触れた程度で、ほとんど気にしていない風でした。それでもやっぱり、私は恥ずかしい思いでした。
 するとどうでしょう、自分で言うのも難ですが、不思議と気持ちが落ち着きました。よし、では参りましょう。そう意を決し、もう一度窓の外へ意識を向けました。しかし先程彼が立っていた場所に彼の姿はなく、代わりに誰かが木陰で寝転んでいる姿が見えました。青々と茂った木々の枝に遮られ、顔は見えません。その間から足だけは少しばかり見えるだけです。先程もちらりとしか目にしませんでしたし、立っていた学生が彼なのかも確証はありません。すると当然あの木陰で寝転んでいる人物が彼と断言できる材料は、全くと言っていいほどないはずです。
 ですがなんとなく、私は思いました。ああ、彼だと。あの自由な姿は、間違いなく彼だと。確証もそれを考える材料もないのに、私は確信していました。あそこにいるのは、絶対彼だと。
 そうして彼の姿を眺めていると、やがて授業の終了を告げるチャイムが鳴り響きました。すると木々の間から彼が立ち上がるのが見え、校舎ではないどこかへ足を向けて行くのがわかりました。はっきり見えたのは彼の後ろ姿だけ。少し長めで、ちょっとだけ色素の薄い髪。遠目ではそれしか確認できませんでしたが、その答えは翌週にわかりました。何故なら彼は、毎週その時間にそこで寝転んでいたからです。時に校舎を見上げ、時に教師に追われ、翌週からは彼の顔を確認する機会が何度かありました。だから今では「あの時の彼も、彼だ」とわかります。今となっては、この確信が当時からあったかは、実は断言できなかったりします。人の考えや思いは、上書きされてしまうものですから。
 でもこれだけはわかります。

 そう、あの席は素晴らしかったのです。







「……さーちゃん」
 いつものように加藤君(仮)の席を奪い、私の正面に陣取るさーちゃんに話しかけました。いつもはさーちゃんから話しかけてきますので、彼女は少し不思議な顔をしました。しかしそんな時もあると納得したのでしょう、「何かしら?」といつもの毅然とした態度で言うのです。
「……ノート貸して下さい」
「……は?」

 毎週その時間、さーちゃんにはとてもお世話になりました。







 そうして毎週彼と会う……と言ってしまうと語弊がありますが、とにかく彼を見かける日々がしばらく続きました。しかし夏休みを終えると再び席替えがあり、私は見事に島中に埋もれてしまったのです。しかしさーちゃんは念願の窓際二番目の席を得ましたので、ある日意を決して訊いてみたのです。「中には誰かいなかった?」と。するとさーちゃんは退屈で窓の外を眺めていたそうですが、そんな人はいなかったと答えてくれました。
 嘘だとは思いませんでしたし、そもそもさーちゃんが嘘をつくメリットが何一つありません。ですから彼はきっともう、窓の外にいないのでしょう。私の方が先に離れてしまったわけですが、さーちゃんのその言葉を聞き、私は「あの人は離れていってしまったのだな」と感じました。元々傍にいたわけじゃないので、不思議な表現だとは思います。しかしようやく見つけることができた共通点を失うことは、やはり離れるという表現が正しいのではないかと感じたのです。

 さて、それでは翌春のお話をいたしましょう。



* ゴンドラの唄(4) ( No.3 )
日時: 2009/07/16 21:01 メンテ
名前: 名無しさん

 翌年から学生生活は、人生が変わったと言ってしまうと「大袈裟」なんて笑われてしまうかもしれませんが、私からするとそう言っても過言ではないぐらいの環境の変化でした。さーちゃんとは違うクラスになってしまいましたが、去年から引き続きルームメイトとして過ごしていましたし、寂しいと感じることはありませんでした。しかしさーちゃんには大変申し訳ないのですが、その寂しいという感情以上に新しいクラスは楽しかったのです。そして同時に……勘違いなまでの期待を抱いていたのもまた、事実でした。
 直枝理樹君、井ノ原真人君、宮沢謙吾君、そして棗鈴ちゃん……この四人が幼馴染で、そしてこの学校での騒動の多くの中心であることは、周知の事実でした。学年でも有名でしたし、また月日を追うごとにその騒動の規模が大きくなっていくのは傍目からも明らかでした。そしてその騒ぎの中で、いつも中心にいる、先輩の姿があったのです。
 その人物こそが私が「彼」や「あの人」と呼ぶ人物であり、あの桜の木で出会い、また中庭で見続けていた人……棗恭介さんです。
 恭介さんは不思議な人でした。と言っても私が去年まで抱いていた、ある種「幻想的」な部分は全くの勘違いというか、どちらかというと彼の「意外な一面」の方であり、事実数日に一度のペースで私たちの教室に現れる恭介さんは、「自由奔放」や「常識外れ」という言葉が似合う男性であり、桜の下で佇んでいた時のような憂い顔を見る機会は全くと言っていいほどありませんでした。それどころか笑顔ばかりで、あの四人で子供のように笑っていた時の方が素であることは明確でした。
 それでも時々、本当に一瞬だけですが、恭介さんは寂しそうな顔をしている時があることを、私は気付きました。皆笑顔で、楽しそうなのに、フッと自分を引いた目線で見てしまうような……直枝君たちの姿を見て、懐かしむような表情を見せるのです。きっと大人になって、学生の頃の写真を久々に目にしたら、あんな目をするんだろうな。そう思わせてくれるくらいに、遠く、寂しい目。恭介さんは時々、四人に気付かないところで、そんな目をしていました。
 けれど私はその悲しい目の真意を、遂に知ることはありませんでした。もう少し長い付き合いができていれば気兼ねなく訊くこともできたかもしれませんが、私と恭介さんがそこに行き着くまでには、あまりにも時間がなさすぎたのです。

 だってこの時はまだ、私たちは他人だったのですから。







 いつもの手順でドライバーを回すと、半回転ほどでポロリとネジは取れて落ちました。それを手に取り横の机に押しやると、窓を大きく開けました。一つ風が大きく吹き込み、踊り場の埃を端に追いやります。窓の外には見慣れた風景、そこに飛び込むようにして私は屋上へと足を踏み入れました。
 一年の三学期から、ここは私だけの聖域でした。
 一緒にお菓子を食べる友達は沢山います。もちろん一緒に食べるのも好きです。しかしここで一人食べるのもまた、私は好きでした。特に考えごともせず、ただのんびりと風を感じながらゆっくりと。時の移ろいなんてものは感じず、ただ遠くを眺めて。
 私を現実に引き戻すのは、必ずお昼休みの終わりを告げる予鈴でした。それまでは時計なんて確認することはなく、ただぽやー……っと。よく人から「ぽやーっとしてる」と言われますが、多分ここにいる時以上にぽやーっとしていることはないと思います。だから本当の私を知る人は、おそらくこの世に誰もいません。恭介さんの憂い顔を知っているのに、私がその意味を知ることができないように、きっと誰も。
 ……いけません、私は何を考えているのでしょうか。私はここに「何をしない」をしに来てるのですから、そんなこと考えてはいけません。ただぽやーっと遠くを眺めて、食べきれないほどのお菓子を並べてほくほく笑顔で食べる。甘いキャラメルにほんのり苦いチョコレート、柑橘系のキャンディにたっぷりシロップを振りかけたパンケーキ。ああ、どれも美味しそうです。けれどどれもこれもというわけにはいきません、この中からいくつかを選び、残りはまた明日にしなくてはいけませんから。
 今日のようにぽかぽか暖かい陽気では、すぐにチョコレートは溶けてしまいます。じゃあチョコレートから頂きましょう。小分けにされた袋を開けると、中からたっぷりココアパウダーがかかった丸いトリュフが出てきました。食べるのがもったいないくらいに奇麗な曲線……パティシエは芸術家を自称する方がいると聞きます。こうして改めてみると、確かにこれは芸術の域。いえ、無知な私からすればりロダンの「考える人」より岡本太郎の「太陽の塔」よりゴーギャンの「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」より、何より美しく感じました。
 意を決します。私はひと思いにトリュフを口の中に放り込みました。
 ……ああ、なんと奥深い味わいなのでしょうか。苦味の奥に隠された甘さは、まるで岩盤奥に隠された宝石のよう。ふんだんに使われたココアパウダーは、まるで金の砂塵のよう。そう、これはまさに――。
「――美味しい」
 大量生産品とはいえ、流石同内容量より一回り高額な値段設定……それだけの自信を持って世に送り出しただけのことはあります。溝に捨てたつもりで買ってみてよかったと心底思いました。
 これを教室で皆に進めたら、きっとすぐなくなってしまうだろうな……と思うと、ちょっと寂しくも思います。それでももし、誰か一人でも笑顔になってくれるのなら、私はそれだけで嬉しく思います。「幸せスパイラル理論」――なかなか頷いてくれる人はいませんが、それでも私はそれを信じ続けます。
 そう思いつつ、ついつい二つ目の袋に手をかけたその時でした。
「あれ、立入禁止のはずじゃあ……」
「ふえッ!?」
 どこからともなく、私ではない声がしてきました。
 男の人の声です。大変です、きっと先生です。先生でなくても、きっと悪い人です不良さんです私の聖域に誰かが入ってきたのです。しかしどう主張しましても、私に非があるのは目に見えています。先生であればとても怒られるでしょう、不良さんならそれをダシに、きっと私なんかでは思いつかないような要求をされることでしょう。
 そうです、身を隠しましょう。可能性は低いかもしれませんが、もしかしたらやり過ごせるかもしれません。しかしそもそも屋上には身を隠すところがあまりにも少ないです。もし隠れるとしたら、給水塔の上か下か――。
(しっ……下っ!)
 上には登る時間がありません。むしろ途中で気付かれてしまえば、ある意味お菓子を食べている以上に目立ってしまいます。それは由々しき事態です。そうとわかれば善は急げ、悪いことをしていてもそれは変わらず。私は飛び込むように給水塔の下に潜り込みましたが……。

 私の頭上から、とんでもなく鈍い音がしました。

 あと頭が割れるように痛いです。

 何が起きたかは言わずともおわかりでしょうから、あえて言いません。何故なら醜態以外の何事でもないからです。何も訊かないで下さい。
 しかしその鈍い音は、聖域への侵入者にも聞こえたのでしょう、足音が徐々にこちらへと近付いてきます。恭介さんのことを考えている時とは違い、張り裂けそうな痛みが胸を襲います。その恐怖から逃れたい一心で両手両膝を動かし奥へ、奥へと向かおうとしますが、身体は進んでくれません。あと一歩、あと一歩で良いのに――!
 やがてその人物は私の座っていた位置まで来ると歩みを止め、私のことを見下ろすように立ち尽くします。胸が痛いです。心臓が胸を突き破り、このカビ臭い給水塔下に落ちてしまいそうです。
「えーと……うちのクラスの」
「ごごごごごめんなさいぃぃーっ!?」
 ……私はこの時、どんなことを言っていたのでしょうか。よく覚えていません。とにかく何か言い訳を、言い逃れをしないと――その一心で、私が知り得る言葉をとにかく口にしました。頭を抱える手が震えます。冷たい地面に着いた両膝が身体を揺らします。それでもなんとか誤魔化したくて……私は喋り続けました。
「……神北さん、こんなところで何やってるのさ」
 驚きのあまり、私の頭上から、再びとんでもなく鈍い音がしました。
 その音の正体……いえ醜態は、やっぱり訊かないでいて下さい。

 

* ゴンドラの唄(5) ( No.4 )
日時: 2009/07/18 02:13 メンテ
名前: 名無しさん

「不合格」
 それが恭介さんが、初めて私一人に向けた言葉でした。

 ……ひどい。







 さて、どこからお話しましょう。私は今、放課後の野球部用のグラウンドに足を踏み入れています。普段なら寮に戻って明日の準備をしたり、友達とお話をしている時間帯ですが、今日は何故かここにいました。
 答えは簡単です、野球のグラウンドなのですから、野球をしに来ているのです。
 直枝君が屋上へやってきたのは昨日のお昼休みのことでした。同じクラスになってからもう一ヶ月以上が経ちますが、実はこうして面と向かってお話するのは初めてのことでした。直枝君は落ち着いた性格な人でしたが、やっぱり"リトルバスターズ"なことだけはあります。私の行動を咎めるどころか、今日のお昼休みに再び屋上へと足を運んでくれたのです。それも、私よりも先に。私から見ると直枝君はとても常識的な人に映っていたのですが、もしかしたら皆でいるからなのかな……失礼だと思いますが、そう思ったのも事実です。
 そこで聞いたのが、「草野球のメンバーを集めている」ということでした。
「全然メンバー集まらないし」
 そう言って直枝君は溜息をつきました。
 私はあまり運動が得意ではありません。クラスでも下の方に入るでしょう、体力テストなんてものをした日には、「もう少し頑張りましょう」がいくつあるのかわかったものじゃありません。
 しかしふと思ってしまったのです。もしここで手を上げたら、"リトルバスターズ"の中に入っていけるのではないかと。恭介さんの笑顔に、一番近いところにいけるのではないかと……そうして、私は安易な方法を取ったのです。
「私、やるよ」
「……はい?」
 目が点になる、ということはこういうことなんだな、と私はその時実感しました。
 ……当然の反応だろうと思いますが、ちょっとだけ傷付きました。
 






 地球は奇麗に自転し続けているな、と私は思いました。
 この屋上からの風景はいつも変わることはありません。いえ、もしかしたら少しずつ青さを増してったり、リフォームでどこかの屋根の色が変わっているのかもしれませんが、私の目にはそうは移りませんでした。
 楽しい日々が続いていました。
 今の生活に飛び込んだ時、さーちゃんには随分小言を言われたものですが、私は後悔なんてしていません。外で見ている以上に、"リトルバスターズ"は愉快で、とても面白いものでした。
 そして……恭介さんも。
 とても強いようでいて、とても繊細。私は近付いて初めて、そのことに気が付きました。
 その隣には、いつも理樹君か鈴ちゃんがいます。当たり前です、何年も一緒にいるのですから、私が入り込む余地なんて、初めからあるわけがないのです。それでも恭介さんの隣に二人がいることはあまりにも自然で、むしろ二人が傍にいるからこそ私は安心して笑っていられたようにも思えます。それでも私は、その一歩引いた位置でいることが、とても心地よかったのです。

 ある日のことです。私はその日のお昼休み、やっぱり一人で屋上にいました。
 ちょっと硬くて適度に甘いベルギーワッフルを口にしながら、遠くを見ていました。空が青くて、風が心地いい。"リトルバスターズ"の空気も好きだけど、私はやっぱりここも好きでした。しばし時を忘れて眺め続けます。
(…………)
 そういえばここ最近、あまり胸の奥が痛まないことに気が付きました。さて、どうしてでしょう……私には心当たりがありません。前以上に恭介さんのことを考え、恭介さんの笑顔を見続けているというのに。
 ふと心が満たされていることに気が付きました。変化を望まない心……今がずっと続けばいい、そんなピーターパンのような、幼稚な感情。
 だから私は気付きました。「今で満足しているからこそ、この胸は痛まない」ということを。
「お邪魔するぜ」
「あ、どーぞ」
 そんなことを考えると、はしごを登って恭介さんが現れました。登り切ると私に背を見せ、大きく伸びをします。「うおー、結構高いなー」そんなことを言いながら、ちょっと笑っていました。
「――……ふえッ!?」
「うおっ、突然なんだっ!?」
 あまりにも自然だったので流してしまいました。突然なんだとはこっちの台詞です。
 私はここにいることを恭介さんに言ったことはありませんでした。それなのに恭介さんは、私がいることが当たり前のようにここにやってきました。
「理樹に聞いてな……どうしても、ここに来たくなったんだ」
「え……?」

 ……私が"リトルバスターズ"に入って以来痛まなかった胸が、もう一度痛み始めるのを感じました。







 それから色々なことを話しました。途中予鈴がなりましたが、「もうさぼっちまおう」という恭介さんの言葉に、私はつい流されてしまいました。でも人生初の授業ボイコットが恭介さんと一緒なら……私はそれも悪くないな、と思ってしまったのです。心の中でお父さんとお母さんに謝っておくことにしました。

「お前の不幸はどうするんだ?」
 私が「幸せスパイラル理論」のことを話しますと、恭介さんはそう言いました。
 その言い方はちょっと卑怯です。何故なら私は人の不幸を望んでいないからです。人の幸せを願う私が、どうして不幸を分け与えますでしょうか。偽善者と罵られても、私はそれだけはできません。
「……うーん、どうにもならない、かな?」
 私がそう苦笑いしますと、恭介さんは歯を見せて笑うのです。「お前らしいな」と。私はその笑顔に、ちょっと不愉快な気分になって頬を膨らましますが、次の瞬間そんなことは忘れてしまいました。
「じゃ、半分はもらっといてやる」
 そうやって笑いながら、彼は私の手のひらより大きくごつごつした手を私の頭の上に置くのです。その部分がじんわりと温かくなり、ちょっとだけ気恥ずかしいかったです。彼はいつも意地悪で、たまにそうして優しくしてくれました。

「恭介さんは……この場所、どう思う?」
 私は次に、そう訊きました。
 私がこの好きな風景を、恭介さんはどう思うのか……私は気になりました。直枝君は「好き」と言ってくれましたが、直枝君の性格ならそう言うのもなんとなくわかりました。でも恭介さんは……正直、わかりません。気遣う性格の方ではありませんし、どちらかといえばアウトドアな方ですし。
 でも私は……やっぱりちょっとだけ、期待していたのでしょう。同じ「好き」を共有できるのではないか、と。
 でも恭介さんの答えは、あまりにも意外なものでした。

「――遠いな」
「……遠い?」
 私は言われたその時、一瞬意味がわかりませんでした。

 恭介さんはそれだけを言い終わると、それっきり喋りませんでした。その顔はやっぱり、さっきまでの笑顔ではなく、何かを憂う顔……私しか気付かない、時々恭介さんが見せる表情。そしてまた、私の前でしかしない表情。その特別を喜びたい反面、その表情を何故、私は止められないんだろう……そう自分を呪いました。
 私が座る隣で恭介さんは立ち続けています。そして俯瞰し続けていました。手を伸ばせば届く、このもどかしい距離感。けれど私も感じていました。恭介さんがこの風景を遠いと感じるのとおそらく同じように、「二人の距離は遠い」と。そう感じました。
 それからは二人で俯瞰し続けました。ただ眺めては、時折恭介さんの方に目をやりました。しかし恭介さんはこちらを見る素振りはなく、やっぱりただ遠くを見つめていました。

(……遠いな)
 そう思い、私は額をこつん、と膝に押し当てました。



 それは修学旅行前日のことでした。







 運命の歯車がくるくる……狂々と回ります。



* ゴンドラの唄(6) ( No.5 )
日時: 2009/07/16 21:03 メンテ
名前: 名無しさん

 大きな事故がありました。大切なものを沢山なくしてしまいました。私だけが残ってしまいました。
 言葉にできない喪失感……胸に大きな風穴が開いてしまったかのような、空虚な気分。学校に戻ってきた私は、寮に戻るより先生に報告するよりも先に、ドライバーを片手に校舎を駆け登りました。まだ身体の節々が痛みます。当たり前です、生きていることの方が不思議なくらいなのですから。こうして走れることだけでも、本来は感謝すべきなのです。
 でも、誰に? 何を? どうして? 私は一体、どうして感謝しなくてはならないのでしょうか。自分を失うことよりも辛いことが現実なのに、どうしてそう思えるでしょうか。
 埃っぽい屋上への踊り場に辿り着き、震える手で窓を止めるネジにドライバーを当てました。けれど急ぐあまりか、慣れたはずのそれができません。自然と目尻から熱いものがじわりと滲み出てくるのを感じました。ううん、まだ駄目。まだ希望を捨てちゃ駄目、だってまだ結果は出ていないのですから。
 いつもより何倍か時間を掛け、ようやく窓を開けることができました。もうネジなんて、スカートが汚れることなんてどうでもいい、早く、早く外へ――!
 酸素を求めるように屋上へ飛び出すと、その風景は何一つ変わってはいません。あれだけの大事があったのに、どうしてと言いたくなるくらいに。とぼとぼと真ん中まで歩いていくと、私は振り返りました。視線を送るは給水塔のお膝元、私の定位置よりこちらから見てちょっと右側。
(…………)
 誰もいませんでした。
 はは、と渇いた笑いが口から漏れるのがわかりました。可笑しくもないのに、どうして笑ってしまったのでしょう、私にもよくわかりません。そして状況が掴めぬまま、私は定位置へと向かいました。
 数日前と同じように、膝を抱えて座ってみました。風景は何一つ変わっていません。しかしどうしてでしょう、この世界から多くの大切なものがなくなったという事実が、どうしてもこの世界を澱んだものにしてしまうのです。
 必死に屋上へ向かっていた時のように、涙が滲むことはありませんでした。ただ春も当に過ぎたというのに、やたらと冷たい風が私を冷やすばかりでした。

 出会ってから、一年と少々。
 桜の下で佇む彼は、まるで幻想の中にいるような美しさがありました。一枚の絵画を眺めるように、私はいつの間にか心を奪われていました。
 緑の木陰で寝転ぶ彼は、あまりにも自然体でした。まるでそこにいるのが当たり前のような彼は、何事にも縛られない鳥のような軽やかさがありました。
 旧友たちと笑い合う彼は、それまでの彼とは違いました。しかし芯は私が見てきたそれそのもので、私はいつしかそれの正体を知りたいと思うようになっていきました。
 この風景を眺める彼は、とても悲しそうでした。これからの人生を思うような、遠く、遠くを見つめる瞳は、私のことなど全く映っていないように思えました。

 ふと思います。私は大切なものを沢山なくしました。しかし私は何故、彼のことばかりを思い返すのでしょうか……それだけが少し疑問でした。
 そこで初めて気が付いたのです。私の胸には一年以上も前から、この得体の知れない何かが存在していたことに。まるで酸素や笑い合う友達と同じように、当たり前のようにこの胸に存在していることに、私はこの時初めて気が付いてしまったのです。
 そして考えました。この得体の知れない何かは、一体どんな感情なのか。このほのかな痛みは、一体何を示すことなのか。私は少し考えてみることにしました。
 それを思い出すために、まず彼を思い返してみることにしました。出会った時から、最後の一瞬まで。あの人がどのように生きたのかを思い返しました。

 彼は自由でした。何事にも縛られない彼は、いつでも人を惹き付ける何かがありました。時に失敗することもあるけれど、周りは笑ってそれを許します。何故ならそれも彼の魅力の一つだったから。だから例えどんなミスをしたとしても、私たちはただ笑っていました。すると彼もまた、素敵な笑顔を見せるのです。

「あれ……?」
 温かいものが膝を濡らします。それは拭っても拭っても、それはぽたぽた、ぽたぽたと膝を濡らします。おかしいな、雨かな……そう思い空を見上げると、薄く曇っているものの、雨は降っていません。しかし視界は徐々に歪んでいきます。どうして、何故……そう思い目を拭った時、初めてその正体がわかりました。

 本当に悲しい涙は嗚咽も何もなく、ただ頬を流れることを、この時初めて知りました。







「……置いていくのと残されるの、どっちが不幸なんだろうね……ねえ、恭介さん?」
 小さな呟きに、答えはありません。
 恭介さんは半分もらってくれるって言ったけど、これでは分け合うことはできません。もし恭介さんの方が不幸なら、私はもっと不幸を背負い込むことになります。もし私の方が不幸なら、恭介さんがもっと不幸を背負い込むことになります。
 では、一体どうすれば幸せになれるのでしょうか。



「……分けなくていいよ」



――だから。



「どうか……笑顔でいて下さい」



 私はずっと、一人で背負い続けるから。

 あなたの幸せを、ずっと願い続けるから。







 この時はまだ、私は知りませんでした。この痛みの答えを求めたところで、無価値であるということを。ただその悲しみと空虚を埋めたくて、すがる思いで答えを追い求め……その答えを得たところで、一体どうなるというのでしょうか。
 でも私は知ってしまったのです。この得体の知れない何かの正体を、この痛みの意味を。

 だからこれを最後まで読んでくれた、あなたへ。
 人生はあなたの思っている以上に短いものです。命はあなたが思っている以上に儚いものです。人生はあなたの思っている以上に……辛く、悲しいものです。
 だから忘れないで。次は絶対にありません。たった一度の機会でも、見落とさないで。それが偶然か必然化はわからないけど……後悔だけは、絶対にしないで。

 私はそれだけを願い続けます。







 もし、この得体の知れない何かを言葉で表現するとしたら……やっぱり私は、恋をしていたんだと思います。





――いのち短し、恋せよ乙女。





 完
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