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題名:佐々木氏頼と河野通義室  名前:T/M 2017/03/25(土) 09:40 No.202  操作


呑舟様
お世話になります。
よい一次史料に出会えるといいのですが、地道に外堀からうめるしかありません。
六角佐々木氏系図略(東大図書館 明治35年版)のなかにも最後の氏綱ー義實ー義秀ー義康と続く中で、
義秀 母将軍義晴公女 永禄11年7月9日逝去32歳  号東光殿
義頼 左京大夫 若州武田義統養子
女子      将軍義輝公養子
女子 伊予国 河野室 長命寺尼上 
とあります。 河野氏の誰かは不明です。
 沙沙貴神社系図にある 河野通義室→長命寺尼上人 と類似しています。
  
 河野氏と長命寺にはなにか関わりがあるのでしょうか?

  
 

題名:Re: 佐々木氏頼と河野通義室  名前:呑舟 2017/03/29(水) 18:20 No.203  操作

長命寺とはどこの長命寺ですかね?
疎いのですが?



題名:佐々木氏頼と河野通義室  名前:T/M 2017/03/17(金) 19:48 No.197  操作


美濃国諸家系譜にある稲葉系図を見ますと、通直(通堯)は康暦元年1379年
自害57歳。子として
   通實 父と同康暦元年1379年自害28歳。生まれは1351年という事になります。一子あり亀王丸といい一柳の祖とあります。
   晴通、通宣、通時は通直と同じ時期に討死。
   通高は美濃池田郡小寺へ 通康は伊予越智郡へ
   通高については多く書かれています。
  牧田の戦いにおける状況とよく似ています。
呑舟 様が述べられた、
康暦2年 北 2月13日 大日本史料 義満、河野通直の戦死を褒し、其嗣亀王丸の軍功を奨励す【古今消息集】 などから亀王丸は通實の子を指すのか、
それとも通義でいいのか知りたい所です。

  
 

題名:Re: 佐々木氏頼と河野通義室  名前:呑舟 2017/03/19(日) 09:00 No.201  操作

系図が二次資料であって一次史料と同等に扱えないものとされることは周知の通りですね。

再度、美濃諸家系譜稲葉系図を見直しましたが、この系譜は変ですね。

康暦元年 北 11月6日 久万町誌 ○河野通堯は細川頼之軍と周桑郡(東予市)佐志久原で戦い討死す。之以河野家全く振るわず衰亡の道を辿る。

が史実と思われますが、美濃・稲葉系図では安芸竹原での戦いと
しています。この時安芸竹原では戦いはありません。この系図の編者の底本の通堯(通直)ではなく、天正期の牛福通直と混乱したものと思われます。しかし討死の日は佐志久原の日と合っています。通實が誰のことか分かりませんが位置的には通能(通義)と同じ位置にいますので通能の別名かもしれません。

どちらにしろ亀王丸は通堯(通直)の子で通能(通義)とするのが正しいと思います。

美濃諸家系譜(稲葉)が明らかに戦いの場所を間違えていたり、通晴、通宣、通時の時代が違う人が登場したり、通高なる人が登場するのは紛乱か加冒かの記述と思われます。

色んなもっともらしい資料が多くよく分からないのです。
一次史料から分別することしかありません。

稲葉系図もいろいろあって、どれも変です。

美濃諸家系譜稲葉系図は通高を美濃稲葉初代としますが、早大稲葉系図は河野通有(1250〜1311 7/14)の子通種を拝志四郎左衛門通胤【稲葉系図】とし、林六郎通時の弟、林四郎通任・去伊予入美濃【稲葉系図】で林小太郎通快につなげます。

しかしこの系図も変なのです。

伊予の河野系図では、通有の子河野四郎左衛門通種(稲葉系図では拝志四郎左衛門通胤)その長子、河野(得能)六郎通時(稲葉系図は林六郎通時)その弟、河野(今岡)四郎通任(稲葉系図は林四郎通任)で美濃稲葉初代とこちらはします。

ただこの系図は加冒と思われます。河野通任は今岡であり、村上義弘姉婿とされ、城滝城戦死となっています。【入川文書】は通時と通任は同一人物とします。

また別の稲葉系図は河野遠江守通吉の子、稲葉通則が美濃稲葉家祖とします。

また別本は、河野(稲葉)七郎通弘を美濃稲葉祖とします。

また系図纂用は河野伊予守通春の子の河野(稲葉)七郎・称・林
を美濃稲葉祖とします。

また別本に河野一郎太郎弾正少輔通直(〜1572 8/26)の子に
河野濃州稲葉家祖河野塩塵とするものもあります。

これほど初代は時代が違い、人が違いする家もめずらしいく、
虚実が全くわかりません。

ここまで来ると「♯人生色々、系図もいろいろ、好きなのをお選び下さい」となります。

古文書と雖も、一次史料でないと信用できない所以ですね。

真面目に追及しているととても疲れます。(はあ〜)















題名:佐々木氏頼と河野通義室  名前:T/M 2017/03/17(金) 16:10 No.196  操作


呑舟 様 お久しぶりです。
美濃大野氏の調査はまだまだで申し訳ございません。
河野通義(通能)の基本情報が複数あるとのことですが、
通義の他の室についてはいかがしょうか?
私にとって解明に頭が痛い、南北朝期の河野氏と土岐氏と佐々木氏の関わり。
新たな進展があるといいですね。

  
 

題名:Re: 佐々木氏頼と河野通義室  名前:呑舟 2017/03/18(土) 16:51 No.200  操作

河野通能(通義)の室については殆ど史料がありません。
よく分からないのが現状です。



題名:平心和尚 行録・語録  名前:T/M 2017/03/18(土) 15:34 No.199  操作


禅蔵寺・土岐御住職からいただきました「平心和尚 行録・語録 平成7年10月30日発行」のp12に
正和2年(1313)平心和尚27歳の時 野洲奈須の雲巌寺の仏国禅師(1241−1316)を訪ねた時、天龍の夢窓国師(1275−1351 37歳  )、江州永源の寂室和尚(1290−1367 37歳)と道伴なり。と書かれています。(一部略) 
永源寺は開基が1361年なので 佐々木氏頼(1326ー1370)37歳の時です。
禅蔵寺は土岐頼忠(1323−1397)の開基です。
平心和尚は土岐頼忠、佐々木氏頼が生まれる10年程前に佐々木氏ゆかりの夢窓国師と江州永源の寂室和尚と三人で会っていた事になります。
☆この語録は原本がなく、江戸後期天保、嘉永年間の写本とのことです。
ただp43の小田・山野内入道とされる土岐明智頼重についての記述が他の説と年代が少しずれているのが気になります。



題名:雲谷玄祥と美濃汾陽寺  名前:T/M 2017/03/18(土) 14:56 No.198  操作


雲谷玄祥(1402−1456)と美濃との関わりを調べています。
玄祥は近江日野の生まれで出目は蒲生氏と言われています。永源寺(佐々木氏頼開基、寂室元光開山)で修行後、犬山、美濃へ移ったようです。現在蒲生氏菩提寺信楽院に伝わる蒲生氏系図を拝見出来るよう手続き中です。玄祥がこの系図の誰にあたるかを知るためです。

ところで「足利義視と足利義稙」の中で
文明9年(1477)11月に今出川大納言義視卿に付属して京都を立出、美濃国に移る。武儀郡谷口村に住・・・
範武(一色六郎号谷口)
美濃国武儀郡谷口村に住
某(谷新五郎) とあります。
谷口といえば玄祥開山の美濃汾陽寺があります。文明9年は玄祥が亡くなってまだ11年しかたっていません。

※一色氏について先日発表させていただいたにもかかわらず、一色氏と谷口村 について触れず申し訳ありませんでした。



題名:佐々木氏頼と河野通義室  名前:T/M 2017/03/16(木) 11:24 No.193  操作


沙沙貴神社所蔵の佐々木氏系図の中に
 18代佐々木氏頼 子に 
    男子    義信、、19代満高、氏高 
    女子   近衛良嗣室 山内義重室 河野通義室のち長命寺尼上人
とあります。今まであまり深く調べてこなかったのですが、
通義(1369−1394)は11歳で家督を相続し、翌年義満により伊予守護になっています。応永元年京で病に倒れ26歳死去したとされています。
室は懐妊しており生まれた子は通久です。通義→通久→教通と続きます。
もし通久の母親が氏頼末娘であれば、出産後伊予を離れ近江長命寺に戻り、尼上人になったのも、通久の子教通が近江馬淵庄北部を所領したのもわかります。

  
 

題名:Re: 佐々木氏頼と河野通義室  名前:呑舟 2017/03/17(金) 08:41 No.195  操作

そうですか?
河野通義(通能)の室は佐々木氏頼の女でしたか。
ただ、河野通義(通能)の基本情報が複数あってよくわかりません。

河野系図は、

河野九郎伊予守通能(義)
(1371〜1394 11/16)病死23才
温玉院殿梅岸道香大禅定門
幼名亀王丸・至徳3年元服15才

1380 康暦2年 北 2月13日 山城淀稲葉文書 ○河野亀王丸(通義・通能)【北朝】は足利義満から御書を頂く。
康暦2年 北 2月13日 大日本史料 義満、河野通直の戦死を褒し、其嗣亀王丸の軍功を奨励す【古今消息集】
1380 康暦2年 北 2月13日 山城淀稲葉文書 ○河野亀王丸(通義・通能)【北朝】は足利義満から御書を頂く。
康暦2年 北 2月13日 大日本史料 義満、河野通直の戦死を褒し、其嗣亀王丸の軍功を奨励す【古今消息集】
1380 天授5年 南 4月28日 山口県史整理年表 ○義弘安芸平田庄の地を吉川経見に付し管理せしむ 【吉川家文書・家譜】
康暦2年 北 4月16日 予章記上蔵寺本 ○河野亀王丸(通義・通能)は足利義満から旧領安堵の御書を頂く。
康暦2年 北 11月4日 上川大野系譜 ■大野宮内少輔直氏逝去 齢80歳 法名 信慶
1380 康暦2年 北 11月14日 大洲大野系譜 □大野宮内少輔直氏逝去 齢80歳 法名 信慶大居士
康暦2年 北 11月14日 別本土岐系図 ○土岐直氏、伊予守、宮内少輔 知行尾張国 出家法名信慶 卒去。
康暦2年 北 11月14日 徳山本土岐家伝系図 ○土岐直氏、伊予守、宮内少輔 知行尾張国 出家法名信慶 卒去。
康暦2年 北 11月14日 内務省土岐系図 ○土岐直氏、伊予守、宮内少輔 知行尾張国 出家法名信慶 卒去。
康暦2年 北 11月14日 大日本史料 北朝前伊予守土岐直氏卒す【常楽記、土岐系図】
康暦2年 北 予陽大野軍記巻4 大野勝義(土岐詮直?)の代。河野・大野和睦の事。附、河野亀王丸へ守護職を譲る事。

等で中央の足利と細川の権力闘争で、河野通直(通堯)と土岐(大野)直氏・土岐(大野)詮直らが伊予で代理戦争をしているようです。亀王丸はまだ子供ですね。

1384 至徳元年 北 予章記上蔵寺本 ○河野亀王丸は15歳にて元服、九郎通能と号す。時に君より義の字を給わり通義と称す。
嘉慶2年 北 3月20日 臼木稲葉侯爵家文書 河野通義は伊豫守に任命される(後小松院綸旨) 【この文書は元禄14年江戸河野権九郎が模写分】

1389 康応元年 北 河野氏の歴史 ○河野通義、周防の竃戸の関(上関)で将軍足利義満に拝謁する。

1390 元中7年 南 3月25日 日本全史 ○尾張・幕府が美濃守護、土岐康行を滅ぼす。(義満、土岐氏内紛に軍事介入し、領国三分割し勢力削減)

1391 明徳2年 北 ○土岐氏の乱で没落した土岐康行は明徳の乱で戦功をあげ、伊勢国守護職を回復する。美濃国守護職は康行追討の戦功で土岐頼益継承
明徳2年 北 予章記 河野通能上洛す、義満、名を与へて通義と改めしむ【予章記】

1392 明徳3年 北 10月5日 日本全史 ○南北朝合一。後亀山天皇が後小松天皇に神器を譲る。

1393 明徳4年 北 4月11日 大日本史料 義満、河野通義をして、伊予の軍勢を伯耆に出し、山名氏幸を援けしむ【諸家文書纂】
1393 明徳4年 北 河野氏の歴史 ○河野通義、山名氏討伐のため伯耆国へ出兵する。
明徳4年 北 9月 九大 阿蘇物語 河野豫州家領(久米・浮穴・温泉東部、及び安芸七島)を四国官領細川家に出訴され得能通範叛く。
1394 応永元年 11月7日 予陽河野家譜 △河野通能(通義)病のため舎弟通之に家督を譲る。その安堵状足利義満よりくる。

上記がだいたいの通義の流れのようですね。

教通が近江馬淵庄北部を所領の由緒は

永享12年 8月9日 愛媛県史 足利義教、河野教通に近江国馬淵庄北方を与える〔長州河野文書〕。
永享12年 近江蒲生郡志 近江蒲生郡志巻一荘園志武家領・河野氏領、馬淵庄
河野氏は伊予国を領し源頼朝創業の時よりの功臣として爾後永く著名の武家なり、其子孫河野九郎教通は永享拾弐年(1440)八月本郡馬淵庄北方に於て所領を与えらる、
其所以知るに由なし元来河野氏と近江国とは古より縁故あり、河野通信五世孫彦四郎通安は文永十一年(1274)後宇多院北面の武者所に召され、
近江国野洲郡篠原郷其他二十箇村を領知し篠原氏を称したれば其孫裔は江州にも存して支流を生じたり、百々氏の如き即ちそれなり、又河野対馬入道通治は
観応二年(1351)浅井郡八相山の戦にも参加し、翌年三月足利義詮が後光厳帝を奉じて美濃の小島より帰京の時も従軍し本郡長光寺の行営にも扈従せし等
河野氏の史蹟は少なからず河野九郎教通は予章記の河野系図以後の人なれば其系統詳ならざれども其名を犬正と称したるは河野文書之を証す
 河野文書
 袖判(足利義教)
近江国馬淵庄北方事所宛行河野九郎教通也、者守先例可致沙之條如件
永享12年 8月9日 河野文書  永享十二年(1440)八月九日
    河野犬正どのへ
之れ将軍足利義教の施行状なり、然るに同日付にて管領細川左京太夫持之が佐々木六角満綱入道崇岱が守護代伊庭六郎に与えし沙汰状が備前岡山に
移住せし小森氏に伝わり、四百余年後に元の蒲生郡の地志上に再会せしは奇遇と云う可し、蓋し小森氏は佐々木氏の部下にして本郡桐原郷に所領を得し家なり。
  備前国岡山市小森徳左衛門氏文書
近江国馬渕庄北方事、任御判之旨可被沙汰付河野九郎教通代之由所被仰下也、仍執達如件
永享12年 8月9日 備前小森家文書  永享十二年八月九日                右京太夫(細川持之)
    佐々木大膳太夫入道殿
備前国岡山市小森徳左衛門氏文書
事、御施行如此早任披仰下之旨可沙汰付河野九郎教通代候者也

永享12年 8月13日 備前小森家文書  永享十二年八月十三日               沙彌(六角満綱)
    伊庭六郎殿
(近江蒲生郡志の上記文章は錯誤ありと覚ゆ、後日精査のこと!)
MINO阿弥コメント 河野通有ー通盛(対馬守通治)ー七郎通遠(太平記出名・江州愛知郡を賜る)
河野教通(明応九年・1500没・伊予守護)の父通久は犬王丸と称。教通ー永享の乱で美濃に出兵(1438)・永享11年(1439)1月24日付け飯尾貞連書状ー
一旦美濃に留まり以後の指示を待つよう命じた書状
。越智惟通の反乱鎮圧のため大和国に出兵(1439)
河野通遠は江州愛知郡に所領を得たとあり江州と河野氏の関わりが見られます。



題名:徳川秀忠と西池田土岐頼忠  名前:T/M 2017/03/16(木) 12:21 No.194  操作


徳川2代将軍秀忠の母親は西郷局と言われています。
西郷局の祖は西池田土岐頼忠の子で三河守護代西郷氏頼音のようです。
現在定光寺(瀬戸市)、禅蔵寺(池田町)、長蔵寺(美濃市)がらみえ三河水野氏と土岐明智氏の関係を調べています。水野氏と西郷氏の関係は今後の課題です。



題名:新小児科医のつぶやき-はてなダイアリ-  名前:名無しさん 2017/03/09(木) 17:05 No.192  操作


「明智光秀の乱」の著者小林正信氏から「新小児科医のつぶやき-はてなダイアリ-」の中に(「永禄六年諸役人附」について「明智」が見られるが明智光秀は軽い身分であったのではないか)とするコメントがあり、少し誤解があるのではないかという指摘があった。
小林氏からは、足軽衆の項にある「明智」は光秀のことだが後世の追記とみなされ意味をなさないと教えて頂いた。(参照黒嶋敏「光源院殿御代当参衆幷足軽以下衆覚」を読む-足利義昭の政権構想-」東大史料編纂所研究紀要十四、2004年

しかし、このブログを拝見して驚いたことに神戸在住の小児科医の方だそうで、なんと「美濃国諸家系譜」を取り上げておられる。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」や「熊本安国寺土岐系図」なども見ておられ、明智氏についても研究されていて我が意を得たりとうれしいかぎりである。
また、誰も着目しないであろう斎藤道三の執権堀田道空についても深く研究されて、さらに驚くばかりである。

医師業は、多少お暇なようなので、ぜひ講師としてお招きして頂ければと井澤理事長にはお願いしたい。



題名:安藤大尉 にじむ無念  名前:名無しさん 2017/02/24(金) 10:08 No.190  操作


本日24日の岐阜新聞に、2・26事件の首謀者安藤輝三大尉が処刑される直前、実兄に宛てた未公開の遺書が、26日中津川文化会館「戦前戦後史人権フォーラム」で公開されるという記事が大きく掲載された。

実は、私はノ−トルダム清心学園理事長渡辺和子先生の200万部を越えるとされるベストセラー「置かれた場所で咲きなさい」の読者の一人である。
陸軍教育総監であった父渡辺錠太郎氏は、2・26事件の犠牲者である。
渡辺和子先生が、9才の時、父錠太郎氏は43発の銃弾をうけ殺害された。
著書の中で
「死の間際に父がしてくれたこと、それは銃弾の飛び交う中、傍で寝ていた私を、壁に立てかけてあった座卓の陰に隠してくれたことでした。かくて父は、生前可愛がった娘の目の前1メ-トルのところで、娘に見守られて死んだことになります。昭和のク−デター、2・26事件の朝のことでした。」と書かれている。

無念のほどは、いかばかりであったかと思うと涙を禁じ得ない。
渡辺和子先生は、2016年12月30日永眠された。
心から哀悼の意を捧げるとともに、ご冥福をお祈りいたします。


  
 

題名:2・26事件  名前:名無しさん 2017/02/24(金) 12:04 No.191  操作

2・26事件における渡辺錠太郎陸軍教育総監等に対する殺害の方法は、数十発にも及ぶ銃弾を撃ち込むなど常軌を逸した殺害である。

新渡戸稲造著の「武士道」には「惻隠の心」が説かれている。
惻隠の情のかけらもない殺害には、大きな疑問を持たざるを得ない。




題名:足利義視と足利義稙  名前:名無しさん 2017/02/17(金) 13:27 No.189  操作


足利義視は、文明9年11月11日(1477年)に子の義材(義稙)を伴って美濃の土岐成頼のもとに亡命した。
足利義視が38才、足利義材(義稙)11才の時である。
長享3年(1489年)4月13日、足利義視は義材とともに上洛した。
足利義視50才、義材23才の時である。
延徳2年(1490年)に足利義材を第10代将軍に擁立。
足利義視延徳3年(1491年)没、足利義種大永3年(1523年)没
美濃には、親子で12年ほど滞在していたことになる。
この間の事情は、美濃の伝記などにも伝えられていない。
「美濃国諸家系譜」所収「谷系図」に、
一色満範ー持範ー範定(持範三男)ー範武ー某
範定
文明9年11月に今出川大納言義視卿に付属して京都を立出、美濃国に移る。武儀郡谷口村に住・・・
範武(一色六郎号谷口)
美濃国武儀郡谷口村に住
某(谷新五郎)

「一色氏系図の仮説的再構築」(岩城大介氏論文)によれば
一色持範は。満範の長男であり、満範没後その遺領を義貫と争ったが応永18年「御兄弟和睦」とある。
また、範定については系図史料のため信憑性に欠けるとされている。
ただ、信頼性に欠ける系図史料とはいえ、文明9年11月に美濃に来たという記述は確かなものである。
足利義視父子に随伴して一色氏庶流が美濃に来たことを伝える唯一の系図史料ではないだろうか?

足利義視や、また義材は、特に少年期から成人に至るまで美濃に住んでいたようで何らかの伝承足跡があってしかるべきである。
土岐成頼と斎藤妙椿、足利父子との交流は、どのようなものであったのか興味深い。


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