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               2009年6月吉日
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題名:明智一族宮城家相伝系図書 10  名前:T/M 2018/06/08(金) 14:46 No.309  操作


系図に隠された史実1

宮城系図上で明智頼篤(1362−1435・1439?)の長男国篤は明徳2年(1391)年生まれ、国篤長男頼秋は応永22年(1416)年生とあります。
頼篤の5男「某」は童名弥釋丸出家して号 弾誓上人 京都北山古故智谷光明山阿弥陀寺の開山也と記述されています。
ところがこの「阿弥陀寺」、1609年(慶長14年)3月、弾誓(たんぜい)上人が開山した念仏道場で、弾誓は尾張国出身、9歳で出家後、諸国を行脚修行の後、この地で開山、4年後の慶長18年(1613)5月23日、当寺で62歳で示寂したようです。



題名:美濃明細記  名前:名無しさん 2018/06/04(月) 15:21 No.308  操作


「美濃明細記」には
「弘治元年斎藤道三と義龍長良邊に戦ひ道三討死之事」
義龍の味方に加わる宗徒の輩には、揖斐因幡(周防)守、原紀伊守、船木大学介、石谷近江守、明智十兵衛・・・

伝記記載の明智十兵衛が、光秀であったとしたら明智光安の明智家とは立場を異にしていたことになり、義龍側にいて明智光安を討った方に加担していたことになります。
光秀一人生き残ったとしても当然です。
伝記の解釈により通説とは全く別の見方も推測可能です。





題名:無題  名前:T/M 2018/06/01(金) 15:18 No.307  操作


 南朝公家 「洞院実世」と
 越前金ヶ崎城→杣山城→美濃根尾城→尾張羽豆崎城→吉野行宮
      
建武3年(1336年)1月北畠顕家率いる奥州軍と合流して足利方を攻撃し、尊氏を京都から追放したものの、5月に尊氏が再上洛して京都を占領した際には、後醍醐に供奉して比叡山に難を避けている。5ヶ月に及ぶ攻防戦の末に後醍醐の下山が決定すると、新田義貞・脇屋義助らとともに東宮恒良親王を奉じて北陸へ落ち、越前金ヶ崎城に入った。恒良を天皇として推戴する北陸朝廷では、実世は伝奏となって「綸旨」を発給したが、足利方の兵糧攻めを受けて、延元2年/建武4年(1337年)3月の落城寸前に義貞らと杣山城へ脱出。延元4年/暦応2年(1339年)美濃根尾城から尾張羽豆崎城に赴き、伊勢・伊賀を経て吉野行宮(南朝)に入ったという。
羽豆崎城は熱田大宮司であった千秋昌能によって築かれた城。その後、南北朝の合一がなると一色氏に支配され、一色氏の代官として佐治氏が入った。戦国期千秋李忠が城主であったが、桶狭間の合戦で討たれたため、その後は千賀氏が在城。



題名:宮城系図10  名前:T/M 2018/06/01(金) 15:11 No.306  操作


1・延元元年(1336)越前国(現・福井県嶺北地方)で戦っていた南朝側の有力武将・新田義貞が根尾谷(岐阜県本巣市)の戦略的重要性を考え、重臣・堀口貞義・貞満父子を派遣し根尾谷を要塞化。その際、地元の豪族・山岸新左衛門に作らせたのが長嶺城。
長嶺城は越前や美濃・徳山(旧・徳山村 現・藤橋村)とのつなぎの場として、又、根尾南朝方の搦手詰城(として谷の最奥地に築かれ、戦略的拠点として重要な城であった。※「根尾村史」



題名:明智一族宮城家相伝系図書 9  名前:T/M 2018/05/30(水) 12:31 No.305  操作


「揖斐川歴史民俗資料館」によれば
揖斐川小島の小島城跡について  築城年代および創築者ともに不詳だが、正和年間(1312〜17年)頃には南朝方の西尾右京亮、堀部太郎兵衛尉が在城していたとされています。以前から「南朝 堀部太郎兵衛尉」について調べていますが比定できません。年代的には堀部の祖成綱の子である氏綱か孫の時綱、清綱あたりになります。氏綱の母は菅原真長女(沙沙貴神社系図)とされていますので
堀部流堀氏(山岸氏)が進士を名乗ってもおかしくないのではと考えています。

土岐頼貞の子・土岐頼清が分家して小島に移住し、その子頼康は、延元二年(建武四年・1337年)小島城を攻略し、西尾氏は遁れ、堀部氏は捕えられた(その後は不明?)。土岐頼康は小島城を改築して居城とした。
康永元年(1342年)に頼康は土岐氏宗家を継ぎ、文和二年(1353年)後光厳天皇が美濃に逃れて来た時には、供奉して小島頓宮を造営した。
頼康は無嗣のため甥の土岐康行を嗣子にした。元中四年(1387年)十二月二十五日頼康が小島城内で没し、瑞巌寺に葬られた。「揖斐川歴史民俗資料館」参照



題名:明智一族宮城家相伝系図書 8  名前:T/M 2018/05/30(水) 07:25 No.304  操作


この系図で強調されているのは、
1)登場する中心人物(山岸氏)の関係者が桂村を本貫の地とした「南朝方」の子孫である。
2)ご指摘のように、光秀というより光継→光安系統を中心に書かれている。
と感じています。



題名:明智一族宮城家相伝系図書 7   名前:T/M 2018/05/29(火) 12:32 No.303  操作


澤源様  いつも大変お世話になります。
「堂洞城主 岸信周を横山住雄氏は、山岸信周と混同されたと解釈しており、当時の戦況からすれば当然との見解です。」進士が奥田系堀氏のみをさしているのか、堀部流堀氏なのか、両方なのか、堀部氏までを指すのかよくわかりません。山岸信周が佐藤氏流であることは、以前堂洞城跡、岸氏、佐藤氏についてかなり調査をし存じています。それからすると混同説は納得がいきます。
しかし系図の流れと光秀佐目出生説などを考えると「堂洞城主 岸信周」は蜂屋在住の山岸氏(堀部氏)の誰かを暗示しているのではと思うのです。



題名:感想  名前:名無しさん 2018/05/29(火) 10:32 No.302  操作


明智氏一族宮城家相伝系図書には
明智光安の子光俊の妻に徳永寿昌の妹がいて、明智滅亡の時、1才ばかりの子とともに兄徳永寿昌の許に逃れて、徳永寿昌は、後年妹の子を自分の子として家督を譲り、その子が徳永昌重で、昌重は実父明智光俊の名をとり徳永左馬助と号したと書かれています。
明智光俊の子で系図上昌重の兄にあたる宗俊がいて、宮城弥十郎と称しています。
また、明智光俊の兄にあたる某氏が宮城兵内舎人で尾州宮城村に住ともあります。
桂郷の花木氏は山岸光章の子新五郎が養子となり花木藤内貞清と号し花木家を継ぎ、山岸、花木家は関係が深いようです。

この系図書の主旨は、光秀より明智光安について多く述べられていますから明智氏の惣領は明智光安であり、その行く末を書きとめたものであろうと思われます。
同様に、熊本安国寺系図、明智一族三宅家の史料も、元々の土岐系図は同じようなものであり、それに後世繋いだようで推測の範囲を越えないものではないかと思います。



題名:明智一族宮城家相伝系図書 2  名前:T/M 2018/05/25(金) 09:36 No.295  操作


宝賀寿男先生は「明智光秀の出自と系譜」
「宮城系図」等の検討を通じてみるの中で、この系図は
?@明智本宗の最後の当主が大永六年(1526)卒去の頼定であり、その暫く後の時期に一旦、同系図の基礎的部分本が成立したか、
この基礎的部分に対して、次ぎに
?A光秀及びその一族・姻族(山岸氏)の系統の継ぎ合わせ、
?B明智左馬助光俊〔三宅弥平次秀満〕系の追加、
?C宮城氏系統の追加、等がなされたのではないか、と述べられています。
私は分類に対してはほぼ同様に考えていますが、
?@光衡に始まる本来の美濃土岐氏(土岐氏祖)
?A頼宗(頼清・頼藤 佐々木公綱次男頼基? )に始まる西池田系土岐氏(佐々木系 )
?B頼兼(頼宗次男)に始まる西池田系明智氏
?C頼篤に始まる長山遠江守頼基(長江氏)と山岸頼慶(江戸大名になった堀氏)の姻戚
?D国篤に始まる蜂屋康光(堀部氏? 熱田神宮宮司系?)と子頼秋に始まる奥田氏につながる越前守護斯波義種(妻は熱田神宮宮司系千秋氏娘、土岐頼康娘
)との姻戚
?E光安の子某に始まる宮木(宮城)氏(近江青地・青木氏 山崎氏)  光俊に始まる三宅氏(近江永原氏)との姻戚
に分けられると考えています。
すると加茂郡蜂屋堂洞城主 進士山岸信周とは加茂郡蜂屋を本貫地とする堀部氏(堀氏と同族?)
の一族をさしていると考えられます。

  
 

題名:Re: 明智一族宮城家相伝系図書 2  名前:名無しさん 2018/05/25(金) 17:26 No.296  操作

宮城系図は、わかりません。
美濃に所領があった宮城豊盛あたりしか見つかりませんが、宮城系図は関わりがないように思われます。
ご研究を期待しています。

  
 

題名:Re: 明智一族宮城家相伝系図書 2  名前:澤源ら 2018/05/29(火) 02:04 No.301  操作

堂洞城主 岸信周を横山住雄氏は、山岸信周と混同されたと解釈しており、当時の戦況からすれば当然との見解です。


題名:明智一族宮城家相伝系図書 6  名前:T/M 2018/05/28(月) 17:02 No.300  操作


「堀秀政軍が坂本城を包囲した時、明智秀満((宮城系図では宮城弥十郎の父)は、光秀が所有する天下の名物・財宝を城と運命を共にさせる事は忍びないと考え、それら名物をまとめて目録を添え、天守閣から敵勢のいる所に降ろし堀監物直政に渡そうとした」とあります。
掘秀政がどうして秀吉側についたのかよくわかりません(細川藤孝も本能寺の変では中立)が、秀満が光秀の遺品を同族の堀氏に渡そうとしたのは納得がいきます。


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