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               2009年6月吉日
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題名:「美濃国諸家系譜」の久貝氏  名前:名無しさん 2018/07/03(火) 10:41 No.330  操作


「美濃国諸家系譜」の久貝系図は藤原為憲から始まり
二階堂實行の時、山城国乙訓郡久貝村に住して久貝と称したとされています。

二階堂實行ー正行ー某(二階堂修理)ー某(二階堂久貝弾正)

某(二階堂久貝弾正)の母は禁裏北面松波蔵人藤原教宗女)ー正藤ー正好と続き正好が美濃に来たとされています。

正藤の妹と思われる女子は、松波左近将監藤原基宗室で斎藤山城守秀龍入道道三母と書かれています。

他の久貝系図は調べておりませんので異論もあると思います。
ただ、久貝姓の方が美濃に来たであろう足跡の中に、斎藤道三の松波家と久貝家の重縁関係が窺われる記述があり、また斎藤道三の母まで特定して書かれている系図は興味深く珍しい系図ではないかと思います。





題名:明田系図  名前:T/M 2018/07/02(月) 06:48 No.328  操作


そのブログは拝見しています。確たる証拠が見つからなかったので 取り上げませんでしたが、
なぜ京都市南区東九条明田町が明田氏発祥の地であると考えられたのか御教示いただけたら幸いです。

  
 

題名:明田氏など  名前:名無しさん 2018/07/02(月) 11:11 No.329  操作

地図には、高槻市明田町も見られます。
京都市の明田町とは特定できませんが、応仁の乱頃には高槻方面には西岡被官衆という存在があります。
ブログには、明田氏は応仁の乱で南丹市八木に落居されたように書かれていますから、京都に住まわれていて戦いに巻き込まれる可能性の少ない南丹市方面に移られたのではないかと云う推測です。
東軍であれ西軍であれ西に行けば何らかのトラブルが予想されます。
また南丹市は明田氏ゆかりの地であったやもしれません。

向日市西岡あたりが斎藤道三の出身地とされています。
研究者は誰も取り上げませんが「美濃国諸家系譜」には、久貝氏と斎藤道三家は重縁であったと書かれています。
久貝氏は斎藤道三と同様美濃に来たようですが、斎藤道三とは仲たがいしたようにも書かれています。
久貝氏は大山崎近くに久貝城があったようで西岡被官衆や大山崎神人の中には見えませんが一定の勢力があった土豪であったと考えられます。
また久貝姓は後の徳川幕府旗本にも見られます。
「美濃国諸家系譜」の記載のように久貝氏との重縁関係が事実であれば、当時の婚姻状況を考慮すれば斎藤道三の斎藤家も西岡では土豪であった可能性がありますから研究者の方々には何とか調べてもらいたいと思います。
斎藤道三の出自は六角承禎書状が決定打となり、何の疑問もないようで残念です。

もちろん明智氏が本能寺の変後に、明田姓を仮冒した可能性もありますが、明田姓は明田氏独自の歴史があり、明智氏がどのような事情で明田姓を称したのかということを詳しく知りたいところです。




題名:明田姓  名前:名無しさん 2018/06/29(金) 10:01 No.327  操作


明智氏とは別に明田姓を調べてみました。
インターネット上に

家紋を探る〜家紋研究家・家紋伝道師のつぶやき
家紋研究家によるブログ

があり、その中に京都府南丹市八木の金龍山清源寺の檀家さんに
明田姓の方が多いと書かれています。
グーグルマップで調べると、京都市南区東九条明田町があり、
もしかすると明田氏の名字の地やもしれません。




題名:無題  名前:T/M 2018/06/29(金) 06:56 No.326  操作


玄琳は光秀死天正10年(1582)から50年過ぎた寛永八辛 (1631)、喜多村弥平兵衛に手紙(明智系図)をしたためた。
そして43年後の延宝二年(1674)11月                 
弘前城の本丸に能舞台が建て られ、能が催された。
内容は
同月2日に、正面の菊の間に殿様・信政公と、分家黒石の領 主・津軽左京、幕府からの預かり人・柳川素庵、藩主・信政の 兄弟・津軽庄右衛門兵庫が着座。 東の方に屏風を立てて殿様の弟方、御物頭、御物奉行、医者、 そして御一門と重臣の面々が着座した。 招待された皆々からの進物の披露があり、殿様から一同に御 料理、御菓子、御茶などが振る舞われている。 午前七時ごろに始まり、午後六時ごろに終わっている。 お能の曲目は『翁』『千歳』に始まり九曲、狂言は『末広が り』以下五曲である。 翌三日には二日目のお能が催され、殿様の生母・久祥院はじ め、御先代・信義公の側室、重臣の妻や母なども招かれている 町人も招かれた。 御能組み合わせの次第によると 笛  「市郎右衛門 ・ 五郎右衛門 」の名が見られる。この2名明田氏につながるかどうか。
また明田(明智)氏が旧掲示板に登場されたのは2005年頃の頃かと思います。
津軽土岐氏との関係も澤源様はじめ多くのからがかなり調査されています。



題名:明智氏一族宮城家相伝系図書 23   名前:T/M 2018/06/27(水) 07:53 No.325  操作


1)熊本県立図書館所蔵「雑撰録」所収の「清和源氏明智系図」にある喜多村氏は光秀と柘植城主喜多村保光・女との子「内治麻呂」のことだとされ、この系図は洛陽妙心寺住職玄琳によって作成され喜多村弥平兵衛(内治麻呂)に宛てられている。
内治麻呂 は喜多村弥平衛となり、江戸時代に町年寄として江戸市政に関与。
a)
内治麻呂は津軽(弘前)藩家老喜多村氏と姻戚関係があるか?
2)明智光秀の側室の子で山城国の神社に匿われた於づる丸・松寿丸子孫で、名字を明田と変えて明治時代に至った。 伝わっているのは、曾祖父の父・明田鉄太郎は津軽(弘前)藩士で能楽師の笛方

b)
明田鉄太郎の祖の笛方の師は誰か?そして藤田流につながるのか? 笛方藤田流は光秀老臣藤田氏と関係があるか?
3)
c)明智3 系図に登場する光秀の子とされる玄林の母は山岸→(堀)堀部氏につながるのか?
が今後の課題です。



題名:明智氏一族宮城家相伝系図書 21  名前:T/M 2018/06/26(火) 15:03 No.323  操作


山鹿素行(母は岡備後守女)が誕生した元和8(1622)年、父山鹿貞以は関一政(1564ー1625)の家臣から同僚を斬ったかどで、会津の町野幸仍を頼り食客になっていたといわれます。幸仍(ゆきより 安井吉秀次男 ?ー1628)の子幸和(ゆきかず1574−1647)の妻は牧村利貞の娘のおなあ(1588−1675のちの祖心尼)。斎藤利宗(1567ー1647 齊藤利三3男 母は稲葉一鉄娘 あん)の三男・幸長(1617ー1701)を養子としています。幸仍(繁仍)の妻は蒲生氏郷の乳母で蒲生氏郷と幸和とは乳兄弟という間柄でした。幸和は本能寺の変(1582)の直後には氏郷と共に日野城に籠城しており光秀とは敵側であったようです。柘植三方衆の一角北村(喜多村?)氏は1487年福地、日置氏と共に六角高頼と同盟を結んでいる。


題名:明智氏一族宮城家相伝系図書 20  名前:T/M 2018/06/25(月) 18:32 No.322  操作


熊本県立図書館所蔵「雑撰録」所収の「清和源氏明智系図」にある喜多村氏は光秀と柘植城主喜多村保光・女との子「内治麻呂」のことだとされ、この系図は洛陽妙心寺住職玄琳によって作成され喜多村弥平兵衛(内治麻呂)に宛てられている。
ところで、江戸時代前期の弘前藩家老に喜多村 宗則(1646−1710)がいる。祖父は北村宗統、父は北村宗好・宗容?(1629−1692)で、「宗」の通字からして松尾芭蕉の師北村季吟の祖父「宗龍」の一族かと思われる。宗龍は医を曲直瀬道三に、連歌を里村紹巴に学び、道三の推挙により一時毛利元就の八男元康の侍医となっている。後北村に戻り、医業の傍らで永原天神連歌宗匠として野洲郡一体の連歌指導に勤めたとされている。また宗則は「山鹿素行」に師事した弘前藩4代藩主津軽信政(1646− 1710 娘には堀親賢正室がいる)に寵愛され「喜多村」と改姓するよう命じられ、素行の三女鶴と江戸にて婚姻している。



題名:明智氏一族宮城家相伝系図書 19   名前:T/M 2018/06/21(木) 19:35 No.321  操作




明智光秀の側室の子「於づる丸」の子孫とされる「明田利右衛門」は今から250年頃前弘前藩士で能楽師の笛方だったとのこと。
1)弘前藩と言えば津軽氏
津軽氏と本能寺の変の黒幕説もある近衛前久をつなぐものに大浦政信・近衛尚通の落胤説があり江戸時代に津軽信義は寛永18年(1641年)『寛永諸家系図伝』編纂の際に、近衛家に対して津軽家系図への認証を求め、近衛家当主近衛信尋から、大浦政信は近衛尚通の猶子であると認められたとあります。又、大浦政信が近衛尚通の落胤だという伝承にちなみ、為信は早くから近衛家に接近して折々に金品や米などの贈物をしており、上洛した際に元関白近衛前久を訪れ「自分は前久公の祖父・尚通殿が奥州遊歴なされた際の落胤」と主張し、又近衛前久は、為信からの財政支援増額により為信も猶子にした。とあります。
2)能楽 笛 藤田流(名古屋市)は檜垣本彦兵衛→
「馬淵頼元」→「下川重次」→「藤田清兵衛(藤田流初代)」という形で現代に伝わっています。清兵衛は母方の叔父である「沢庵和尚」の世話により誕生の地丹波・出石を出て、和尚の堺南宗寺に住み(1614年13歳)、その後、「近衛信尋」に奉見仕官(1617年)しています。
信尋公より下川丹波守重次(丹州)を笛の師として定めよと拝命を受け、
そ清兵衛は禁裏の笛役者として近衛家に仕え、その後、尾張徳川家初代義直の希望で清兵衛は尾張に移り(1629年)十一世藤田六郎兵衛氏に至っています
3)馬淵重時は近衛信尋に仕え、その子「易重」は「松平直政」に「正重」は「松平直矩」に「信重」は「松平直基」に仕えています。



題名:明智氏一族宮城家相伝系図書 18  名前:T/M 2018/06/16(土) 18:04 No.320  操作


進士晴舎の晴は足利義晴からの偏諱
進士輝舎の輝は足利義輝からの偏諱
進士九郎三郎賢光、進士光賢の賢は六角 義賢からの
偏諱では?。と考えています。
足利義輝(1536−1565)は六角定頼(1495−1552)を鳥帽子親として元服、六角 義賢 (承禎 1521−1589)はその嫡男。
  義賢 の正室:畠山義総娘(姉)
      継室: 畠山義総娘(妹)

山岸信周の正室:明智光継娘 (姉 25歳没)
       子 進士光賢、明智光秀。
     継室: 明智光継娘 (妹)
       子 進士作左衛門貞連、安田国継。
 なんかよく似てますね?



題名:無題  名前:T/M 2018/06/16(土) 15:22 No.319  操作


城系図も山崎片家(1547−1591)の室が明智光秀(1528−1540)の娘であることが実証されれば、なぜ宮城家に伝承されたかは難しい事ではないと思います。しかしまだ確認出来ていません。
光秀19歳前だったら片家室(光秀女)は年上、後なら年下。
この系図をはじめ、光秀、その子に関係しているだろう多くの事を調べていくと多賀・佐目を中心とした半径10km前後の範囲以内に収まります。例えば山崎氏の居城とされる山崎城(彦根市清崎町)、光秀出生地とされる上石津多羅、など。


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