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               2009年6月吉日
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題名:明智一族宮城家相伝系図書 9  名前:T/M 2018/05/30(水) 12:31 No.305  操作


「揖斐川歴史民俗資料館」によれば
揖斐川小島の小島城跡について  築城年代および創築者ともに不詳だが、正和年間(1312〜17年)頃には南朝方の西尾右京亮、堀部太郎兵衛尉が在城していたとされています。以前から「南朝 堀部太郎兵衛尉」について調べていますが比定できません。年代的には堀部の祖成綱の子である氏綱か孫の時綱、清綱あたりになります。氏綱の母は菅原真長女(沙沙貴神社系図)とされていますので
堀部流堀氏(山岸氏)が進士を名乗ってもおかしくないのではと考えています。

土岐頼貞の子・土岐頼清が分家して小島に移住し、その子頼康は、延元二年(建武四年・1337年)小島城を攻略し、西尾氏は遁れ、堀部氏は捕えられた(その後は不明?)。土岐頼康は小島城を改築して居城とした。
康永元年(1342年)に頼康は土岐氏宗家を継ぎ、文和二年(1353年)後光厳天皇が美濃に逃れて来た時には、供奉して小島頓宮を造営した。
頼康は無嗣のため甥の土岐康行を嗣子にした。元中四年(1387年)十二月二十五日頼康が小島城内で没し、瑞巌寺に葬られた。「揖斐川歴史民俗資料館」参照



題名:明智一族宮城家相伝系図書 8  名前:T/M 2018/05/30(水) 07:25 No.304  操作


この系図で強調されているのは、
1)登場する中心人物(山岸氏)の関係者が桂村を本貫の地とした「南朝方」の子孫である。
2)ご指摘のように、光秀というより光継→光安系統を中心に書かれている。
と感じています。



題名:明智一族宮城家相伝系図書 7   名前:T/M 2018/05/29(火) 12:32 No.303  操作


澤源様  いつも大変お世話になります。
「堂洞城主 岸信周を横山住雄氏は、山岸信周と混同されたと解釈しており、当時の戦況からすれば当然との見解です。」進士が奥田系堀氏のみをさしているのか、堀部流堀氏なのか、両方なのか、堀部氏までを指すのかよくわかりません。山岸信周が佐藤氏流であることは、以前堂洞城跡、岸氏、佐藤氏についてかなり調査をし存じています。それからすると混同説は納得がいきます。
しかし系図の流れと光秀佐目出生説などを考えると「堂洞城主 岸信周」は蜂屋在住の山岸氏(堀部氏)の誰かを暗示しているのではと思うのです。



題名:感想  名前:名無しさん 2018/05/29(火) 10:32 No.302  操作


明智氏一族宮城家相伝系図書には
明智光安の子光俊の妻に徳永寿昌の妹がいて、明智滅亡の時、1才ばかりの子とともに兄徳永寿昌の許に逃れて、徳永寿昌は、後年妹の子を自分の子として家督を譲り、その子が徳永昌重で、昌重は実父明智光俊の名をとり徳永左馬助と号したと書かれています。
明智光俊の子で系図上昌重の兄にあたる宗俊がいて、宮城弥十郎と称しています。
また、明智光俊の兄にあたる某氏が宮城兵内舎人で尾州宮城村に住ともあります。
桂郷の花木氏は山岸光章の子新五郎が養子となり花木藤内貞清と号し花木家を継ぎ、山岸、花木家は関係が深いようです。

この系図書の主旨は、光秀より明智光安について多く述べられていますから明智氏の惣領は明智光安であり、その行く末を書きとめたものであろうと思われます。
同様に、熊本安国寺系図、明智一族三宅家の史料も、元々の土岐系図は同じようなものであり、それに後世繋いだようで推測の範囲を越えないものではないかと思います。



題名:明智一族宮城家相伝系図書 2  名前:T/M 2018/05/25(金) 09:36 No.295  操作


宝賀寿男先生は「明智光秀の出自と系譜」
「宮城系図」等の検討を通じてみるの中で、この系図は
?@明智本宗の最後の当主が大永六年(1526)卒去の頼定であり、その暫く後の時期に一旦、同系図の基礎的部分本が成立したか、
この基礎的部分に対して、次ぎに
?A光秀及びその一族・姻族(山岸氏)の系統の継ぎ合わせ、
?B明智左馬助光俊〔三宅弥平次秀満〕系の追加、
?C宮城氏系統の追加、等がなされたのではないか、と述べられています。
私は分類に対してはほぼ同様に考えていますが、
?@光衡に始まる本来の美濃土岐氏(土岐氏祖)
?A頼宗(頼清・頼藤 佐々木公綱次男頼基? )に始まる西池田系土岐氏(佐々木系 )
?B頼兼(頼宗次男)に始まる西池田系明智氏
?C頼篤に始まる長山遠江守頼基(長江氏)と山岸頼慶(江戸大名になった堀氏)の姻戚
?D国篤に始まる蜂屋康光(堀部氏? 熱田神宮宮司系?)と子頼秋に始まる奥田氏につながる越前守護斯波義種(妻は熱田神宮宮司系千秋氏娘、土岐頼康娘
)との姻戚
?E光安の子某に始まる宮木(宮城)氏(近江青地・青木氏 山崎氏)  光俊に始まる三宅氏(近江永原氏)との姻戚
に分けられると考えています。
すると加茂郡蜂屋堂洞城主 進士山岸信周とは加茂郡蜂屋を本貫地とする堀部氏(堀氏と同族?)
の一族をさしていると考えられます。

  
 

題名:Re: 明智一族宮城家相伝系図書 2  名前:名無しさん 2018/05/25(金) 17:26 No.296  操作

宮城系図は、わかりません。
美濃に所領があった宮城豊盛あたりしか見つかりませんが、宮城系図は関わりがないように思われます。
ご研究を期待しています。

  
 

題名:Re: 明智一族宮城家相伝系図書 2  名前:澤源ら 2018/05/29(火) 02:04 No.301  操作

堂洞城主 岸信周を横山住雄氏は、山岸信周と混同されたと解釈しており、当時の戦況からすれば当然との見解です。


題名:明智一族宮城家相伝系図書 6  名前:T/M 2018/05/28(月) 17:02 No.300  操作


「堀秀政軍が坂本城を包囲した時、明智秀満((宮城系図では宮城弥十郎の父)は、光秀が所有する天下の名物・財宝を城と運命を共にさせる事は忍びないと考え、それら名物をまとめて目録を添え、天守閣から敵勢のいる所に降ろし堀監物直政に渡そうとした」とあります。
掘秀政がどうして秀吉側についたのかよくわかりません(細川藤孝も本能寺の変では中立)が、秀満が光秀の遺品を同族の堀氏に渡そうとしたのは納得がいきます。



題名:明智一族宮城家相伝系図書 5  名前:T/M 2018/05/28(月) 09:05 No.299  操作


もう一つ明智氏、宮城氏、徳永氏を関係づける重要人物として山崎片家がいます。
元々近江六角氏の家臣で主君を六角義賢、織田信長、明智光秀とへ変えます。
六角義賢→義治→織田信長→明智光秀→羽柴秀吉→信雄→豊臣秀吉
室は正室は明智光秀娘となっていますが、出典は調査しましたがよくわかりませ
子に宮城子の養子となった頼久がいます。
堀氏は奥田堀氏とともに江戸大名、
堀部氏も御典医曲直瀬道三、井伊家に側室。
山崎氏、徳永氏も江戸大名。
宮城氏も旗本
として徳川幕府に関わっています。表に出せない何かがあったのでしょうか?



題名:明智一族宮城家相伝系図書 4  名前:T/M 2018/05/28(月) 08:04 No.298  操作


1・「徳永昌重の父徳永寿昌は慶長3年(1598年)、秀吉の死後に文禄・慶長の役の幕引きをはかる五大老の徳川家康の命令で、宮城豊盛や徳川家臣の山本重成とともに朝鮮に在陣していた日本軍へ撤兵を伝える使者を務めた。」とあります。
2・宮城系図では昌重の母が昌利娘となっています。昌重の兄 宗俊は三宅から宮城弥十郎を名乗り土岐揖斐氏の本貫の地桂村へ移ったとあります。
1、2で山県市高富の宮城氏とこの系図が
ながるのではないでしょうか?



題名:明智一族宮城家相伝系図書 3  名前:T/M 2018/05/26(土) 10:48 No.297  操作


 「美濃国諸家系譜」にある「堀系図」の中で堀光直(山岸源太)の法名は
竜峰林泉寺です。林泉寺と名のつくお寺は春日山城主となった堀秀治によって再興され、堀秀重、堀秀政、堀秀治3代の位牌と墓があるお寺(曹洞宗)と岐阜県山県市片原のお寺があります。共に光直にゆかりがあるのでしょうか?



題名:追伸  名前:名無しさん 2018/05/23(水) 10:02 No.294  操作


保々氏
守護土岐頼忠の二男右馬頭三康の後裔であった保々則貞は美濃国多芸郡鷲巣村に住んでいたが天正10年父が戦死したので西国におもむき加藤清正の男百助某に属し朝鮮にわたり帰朝、その後徳川家康に仕え美濃国山県郡・中嶋両郡のうち1000石を与えられた。
(高富町史より)

保々氏は美濃国出身で代々土岐氏に仕えた。保々則康が伊勢国に移り滝川一益に属した。嫡男則貞は加藤清正、ついで慶長2年に徳川家康に仕える。知行1000石を与えられ御書院番を務める。
寛永18年11月没72才嫡男貞広が跡を継ぐ。
(記録御用所本 古文書より・東京堂出版)-近世旗本家伝文書集-

保々氏は頼遠系以外にも頼忠系があるようです。


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