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               2009年6月吉日
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題名:平成29年度講師の内定分と演題(仮題)を発表 
名前:井澤康樹 2017/02/03(金) 23:51 No.181  操作


美濃源氏フォーラム平成29年度講師陣内定分と演題(仮題)を順次発表♪

長沼毅氏 可児市教育委員会「土岐久々利氏と斎藤正義」
佐藤圭氏 朝倉遺跡資料館 「越前朝倉氏と美濃土岐氏−土岐頼武と明智光秀」
北爪寛之氏 瑞穂町歴史資料館「北条氏内訌にみる土岐定親と嘉元の乱」
内堀信雄氏 岐阜市教育委員会「土岐氏の美濃尾張守護所変遷」
高橋方紀氏 岐阜市教育委員会「信長美濃入国450年岐阜城構築の謎を追う」
水野誠志朗氏 (株)デイズ社長 「織田信長の国盗り物語」
明智憲三郎氏 明智光秀後衛 「明智光秀『本能寺の変』に至る根拠を解読」
若宮多門氏 長滝白山神社宮司「白山信仰1300年と美濃」
福島克彦氏 大山崎歴史資料館「離宮八幡宮と岩清水八幡宮の尾張美濃における 油座等の特権支配−国盗り物語斎藤道三油売り伝説の崩壊」



題名:蜂屋定親  名前:名無しさん 2017/02/02(木) 12:32 No.178  操作


「嘉元の乱1305年」で刑死したはずの、蜂屋定親は、「美濃国諸家系譜」所収「土岐一族蜂屋一門伊深、西脇」の系図によれば
定親は、隠岐四郎、孫太郎、建武2年(1335年)6月15日89才卒法名鏡圓とされている。
系図は定親-貞経-光経-満房
        -貞秀
とされ、「土岐氏主流累代史全」(渡辺俊典著)掲載の土岐系図などと同様である。
「嘉元の乱」の折には、定親が59才前後という設定となり、この系図の記述は疑問に思われる。
土岐頼貞は、一般的には文永8年(1271年生)暦応2年(1339年卒)
「明智氏一族宮城家相伝系図書」には、頼貞は文永元年(1264年生)暦応2年(1339年)2月23日卒とある。
「嘉元の乱」の時点で、土岐頼貞は文永8年頃の生誕が正しいとすれば、34才頃の年齢となる。
蜂屋定親と土岐頼貞は兄弟とされているので、定親は「嘉元の乱」の時点では、40才前後ではなかろうか?
父とされる土岐光定は弘安4年(1281年)卒とされているので光定の晩年に近い子供であり、定親は頼貞の生年1271年以前の生誕となる。
蜂屋定親が、なぜ北条宗方に味方し北条時村を討ったのか不明である。
渡辺俊典氏の「土岐氏主流累代史全」には、「母方に味方して」と短く書かれているだけであり、出典は不明である。
これが事実であれば、北条宗方の父北条宗頼周辺の女性が、蜂屋定親の母ということになる。
「嘉元の乱」は、北条氏の内訌であろうとされているだけで、美濃守護であったこともある北条時村を討った理由も定かではない。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」には、土岐頼清の母は佐々木頼綱女とも土岐光包家ノ女とも書かれている。
蜂屋定親と土岐頼貞は、本当に兄弟であったのか?
「嘉元の乱」の折には、土岐頼貞は34才の青年でもあり、兄定親が北条宗方に味方し誅された様子を、どのような思いで見届けていたのであろうか?


  
 

題名:Re: 蜂屋定親  名前:名無しさん 2017/02/02(木) 14:52 No.179  操作

土岐光定が1281年に卒した後、土岐氏の惣領は誰であったのか?
一般的な土岐系図には出名しない土岐光定の子土岐光包は「明智氏一族宮城家相伝系図書」では文永9年(1272年卒)とされており、父の土岐光定より9年も早く没している。
光包は「明智氏一族宮城家相伝系図書」では嘉禎元年(1235年生)文永9年1272年卒)
「明智一族三宅家の史料」(三宅家史料刊行会平成27年初版)では延応元年(1239年生)文永9年(1272年)38才卒弘長3(1263年)家督相続とされている。
生年が延応元年では33才卒となるので明らかに誤りであり「明智氏一族宮城家相伝系図書」の記述が正しいものと思われる。
土岐光定が1281年に卒したあと、誰が土岐氏の惣領を務めていたのかということであるが、土岐頼貞は1281年時点で10才であり、系図から見れば1281年から1305年までは蜂屋定親以外にはいない。
「嘉元の乱」は、土岐氏一門にとっては屋台骨を揺るがすほどの大きな事件であったはずである。




  
 

題名:Re: 蜂屋定親  名前:名無しさん 2017/02/02(木) 20:53 No.180  操作

蜂屋定親と土岐頼貞は年齢的には土岐光定の孫にあたる年齢であるため土岐光包の子供である可能性も考えられる。
光定の子光包が早世したため、光包の子で孫の定親と頼貞を光定の子供としたのではないかとも推測することができる。
ただ、光包は一般的な土岐系図には全く登場しないため実在の人物かどうかも不明であるが、偽書という烙印を押された明智氏一族宮城家相伝系図書の記述の方が何となく真実を述べているような気がする。



題名:「明智光秀の乱」著者小林正信氏  名前:名無しさん 2017/01/25(水) 11:18 No.177  操作


読売新聞(1月15日、1月22日)に、小林正信氏の「明智光秀の乱」の要旨、「明智光秀は進士藤延である」とする説が大きく取り上げられて紹介された。
斎藤道三も、松波、西村、長井、斎藤名字に変遷している。
当時は戦国とはいえ、名門の名字を使用することは美濃の武士団を統率するためには実利的に意味があったのではないかと思われる。
斎藤義龍、龍興は一色氏を称して家臣にも延永氏などの一色氏
有力家臣名に改名させている。(斎藤龍興老臣連署状)
なぜ、このようなことをしたのかについては、明確な回答は見当たらない。
小林氏の説のように、進士氏が明智氏の名跡を継ぐことにより美濃の武士団を統率していく手段とした可能性は排除できない。
明智光秀は、また惟任日向守とも称しているようで、これも詳細不明である。
日本の系図は血統系図ではなく相続系図であり、そういう意味では全く血のつながりがない人物でも、家督を相続すれば系図は成立することになる。
当時の背景を考慮して、名字を名乗る意味を改めて考え直す必要があり、小林氏の説は、一石を投じるものである。



題名:無題  名前:名無しさん 2017/01/18(水) 10:18 No.176  操作


インフルエンザB型に罹ってしまいました。
ろくでもない妄想をしていたバチがあたったようです。

土曜日の夜、熱が出たためかかりつけのクリニックなどどこもやっていないので岐阜県総合医療センターに行きました。
紹介状がないため、1万円ちよっとかかりました。びっくりです。
今は、熱もなく元気ですがウイルスが少し残っている可能性もあり日曜日のゴルフもキャンセルして、今週はおとなしくしていようと思います。
荒唐無稽な事を妄想して、それ見たことかと言われそうで少し反省しています。



題名:土岐頼貞  名前:名無しさん 2017/01/13(金) 10:27 No.175  操作


系図には、土岐頼貞は隠岐孫二郎、蜂屋定親は隠岐孫太郎と書かれ、他にも隠岐と称する土岐氏が見られます。
土岐光定が隠岐守であったため隠岐と称しているのではないかということですが、キチンとした回答になっていないと思います。
土岐光定と光包の土岐氏は、ここで系図が切れています。
佐々木氏流隠岐氏が土岐氏の家督を継いだのではないかと推測しています。
スベースが限られている系図に隠岐と書かれている以上、これはいわば特記事項だと思います。
研究者の方々は系図を問題にしない傾向もありますが、佐々木義清の子佐々木政義は隠岐太郎と称し、政義の孫は隠岐孫太郎とするのが普通です。
土岐光定、光包から佐々木氏流隠岐氏が土岐氏の家督をとったのではないかとと推測しています。



題名:土岐成頼  名前:名無しさん 2017/01/13(金) 10:10 No.174  操作


土岐成頼の出自については一色氏、饗庭氏、佐良木氏など諸説あり不明ですが、土岐頼益の娘が一色氏に嫁ぎ、一色氏との間に生まれた子供が土岐持益の養子となり土岐氏を継いだと考えるのが自然ではないかと思います。
土岐頼芸の室深芳野は、一色氏の出自であり、頼芸が六角氏の娘を室として迎えるにあたり離縁されたものではないかと思われます。
深芳野は、斎藤道三室とされていますが後世の脚色された話であり、仮に伝記で書かれているようなことであったとしても名目上のことであったのではないかと思います。
また、深芳野と稲葉一鉄は稲葉氏出自として稲葉系図に載っていますが、この二人は「美濃国諸家系譜」所収「稲葉系図」に書かれているように稲葉氏ではないと推測します。
牧田合戦で稲葉氏は滅亡し、一色氏出自の一鉄が土岐頼芸の命により稲葉氏の家督を継いだものと思います。
同様な例としては、明智光秀ですが明智氏は斎藤義龍に攻められて完全に滅亡したものと思います。
明智光秀の出自に諸説あるのは明智名字を名乗った明智光秀の出自に疑問があるためです。
小説のように一人だけ生き残って稲葉家や明智家を再興したなどということは、どうしても疑問に思われます。
裏付ける史料もなく、ただの推測にすぎませんが歴史を楽しく考えるための妄想です。



題名:香焼寺(大野町)と後南朝  名前:T/M 2016/12/23(金) 08:52 No.173  操作


佐々木馬淵(馬渕)氏と楠木氏はいつ頃どの辺りで接点があったのかと
調べてみますと、
篠原流馬渕系図に祖廣定が「右大将源頼朝卿御側へ被為召昼夜相詰罷在御寵愛不浅御小姓頭被仰付翌丑4月  河内国 於 志紀郡 五千貫賜る」とあります。志紀郡のどこか、いつ頃まで所領していたかは不明ですが、この地は国府(藤井寺市)がおかれ、楠木正成が祈願所とした「河内国総社 志貴県主神社」や 「伴林氏神社」があったところです。
また「源頼朝が最初に上洛した時、雇従者に楠木七郎という名前がある」(参照 時代背景)
しかしどちらも手がかりが見つかったという所です。



題名:汾陽寺と蒲生氏  名前:T/M 2016/12/15(木) 19:14 No.171  操作


美濃斎藤氏と日野蒲生氏は 共に藤原秀郷が祖。ではなく魚名流と思います。
お詫びし訂正させていただきます。
近日、関谷医院長に同席されるとの事ですが、よろしくお願い致します。

  
 

題名:Re: 汾陽寺と蒲生氏  名前:名無しさん 2016/12/16(金) 12:25 No.172  操作

インターネット上の「天月ブログ楠木探訪録その124川上村の更矢家古伝」に美濃楠木氏の伝承が書かれていました。
楠木正成妻久子は南朝の脇屋義助、伊自良氏の縁で伊自良に来たようです。
大阪府富田林市甘南備に久子夫人の遺跡があり、山県市長滝の甘南美寺(甘南備神社)と何らかの関わりがありそうです。
伊自良湖のレストランの方が歴史に造詣が深く以前南朝史の資料を提供したことがあります。
楠木氏の伝説まで出てきては混乱の極みですから、あまり深入りしたくないのが本音です。



題名:汾陽寺と蒲生氏  名前:T/M 2016/12/15(木) 16:36 No.170  操作


美濃斎藤氏と日野蒲生氏は 共に藤原秀郷が祖。
春日局ゆかりの日野町野氏より蒲生氏郷の乳母が出ています。



題名:汾陽寺と蒲生氏  名前:T/M 2016/12/15(木) 16:29 No.169  操作


乾徳山・汾陽寺(臨済宗妙心寺派   岐阜県関市武芸川八幡谷口)
嘉吉元年(1441)斎藤越前守利永の創建で、開基は雲谷和和尚 
延徳二年(1490)に斎藤新四郎利国がまた再建といわれています。
この雲谷玄祥(1402−1456)和尚、1446年犬山瑞泉寺の青龍山臥龍寺を建立しているのですが、臥龍寺の御住職のお話では近江日野蒲生氏出身とのことでした。最初は日野近くの永源寺(1361年創建開山 寂室元光  開祖 佐々木氏頼)で修行し、その後犬山へ。


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