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               2009年6月吉日
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題名:無題  名前:名無しさん 2017/01/18(水) 10:18 No.176  操作


インフルエンザB型に罹ってしまいました。
ろくでもない妄想をしていたバチがあたったようです。

土曜日の夜、熱が出たためかかりつけのクリニックなどどこもやっていないので岐阜県総合医療センターに行きました。
紹介状がないため、1万円ちよっとかかりました。びっくりです。
今は、熱もなく元気ですがウイルスが少し残っている可能性もあり日曜日のゴルフもキャンセルして、今週はおとなしくしていようと思います。
荒唐無稽な事を妄想して、それ見たことかと言われそうで少し反省しています。



題名:土岐頼貞  名前:名無しさん 2017/01/13(金) 10:27 No.175  操作


系図には、土岐頼貞は隠岐孫二郎、蜂屋定親は隠岐孫太郎と書かれ、他にも隠岐と称する土岐氏が見られます。
土岐光定が隠岐守であったため隠岐と称しているのではないかということですが、キチンとした回答になっていないと思います。
土岐光定と光包の土岐氏は、ここで系図が切れています。
佐々木氏流隠岐氏が土岐氏の家督を継いだのではないかと推測しています。
スベースが限られている系図に隠岐と書かれている以上、これはいわば特記事項だと思います。
研究者の方々は系図を問題にしない傾向もありますが、佐々木義清の子佐々木政義は隠岐太郎と称し、政義の孫は隠岐孫太郎とするのが普通です。
土岐光定、光包から佐々木氏流隠岐氏が土岐氏の家督をとったのではないかとと推測しています。



題名:土岐成頼  名前:名無しさん 2017/01/13(金) 10:10 No.174  操作


土岐成頼の出自については一色氏、饗庭氏、佐良木氏など諸説あり不明ですが、土岐頼益の娘が一色氏に嫁ぎ、一色氏との間に生まれた子供が土岐持益の養子となり土岐氏を継いだと考えるのが自然ではないかと思います。
土岐頼芸の室深芳野は、一色氏の出自であり、頼芸が六角氏の娘を室として迎えるにあたり離縁されたものではないかと思われます。
深芳野は、斎藤道三室とされていますが後世の脚色された話であり、仮に伝記で書かれているようなことであったとしても名目上のことであったのではないかと思います。
また、深芳野と稲葉一鉄は稲葉氏出自として稲葉系図に載っていますが、この二人は「美濃国諸家系譜」所収「稲葉系図」に書かれているように稲葉氏ではないと推測します。
牧田合戦で稲葉氏は滅亡し、一色氏出自の一鉄が土岐頼芸の命により稲葉氏の家督を継いだものと思います。
同様な例としては、明智光秀ですが明智氏は斎藤義龍に攻められて完全に滅亡したものと思います。
明智光秀の出自に諸説あるのは明智名字を名乗った明智光秀の出自に疑問があるためです。
小説のように一人だけ生き残って稲葉家や明智家を再興したなどということは、どうしても疑問に思われます。
裏付ける史料もなく、ただの推測にすぎませんが歴史を楽しく考えるための妄想です。



題名:香焼寺(大野町)と後南朝  名前:T/M 2016/12/23(金) 08:52 No.173  操作


佐々木馬淵(馬渕)氏と楠木氏はいつ頃どの辺りで接点があったのかと
調べてみますと、
篠原流馬渕系図に祖廣定が「右大将源頼朝卿御側へ被為召昼夜相詰罷在御寵愛不浅御小姓頭被仰付翌丑4月  河内国 於 志紀郡 五千貫賜る」とあります。志紀郡のどこか、いつ頃まで所領していたかは不明ですが、この地は国府(藤井寺市)がおかれ、楠木正成が祈願所とした「河内国総社 志貴県主神社」や 「伴林氏神社」があったところです。
また「源頼朝が最初に上洛した時、雇従者に楠木七郎という名前がある」(参照 時代背景)
しかしどちらも手がかりが見つかったという所です。



題名:汾陽寺と蒲生氏  名前:T/M 2016/12/15(木) 19:14 No.171  操作


美濃斎藤氏と日野蒲生氏は 共に藤原秀郷が祖。ではなく魚名流と思います。
お詫びし訂正させていただきます。
近日、関谷医院長に同席されるとの事ですが、よろしくお願い致します。

  
 

題名:Re: 汾陽寺と蒲生氏  名前:名無しさん 2016/12/16(金) 12:25 No.172  操作

インターネット上の「天月ブログ楠木探訪録その124川上村の更矢家古伝」に美濃楠木氏の伝承が書かれていました。
楠木正成妻久子は南朝の脇屋義助、伊自良氏の縁で伊自良に来たようです。
大阪府富田林市甘南備に久子夫人の遺跡があり、山県市長滝の甘南美寺(甘南備神社)と何らかの関わりがありそうです。
伊自良湖のレストランの方が歴史に造詣が深く以前南朝史の資料を提供したことがあります。
楠木氏の伝説まで出てきては混乱の極みですから、あまり深入りしたくないのが本音です。



題名:汾陽寺と蒲生氏  名前:T/M 2016/12/15(木) 16:36 No.170  操作


美濃斎藤氏と日野蒲生氏は 共に藤原秀郷が祖。
春日局ゆかりの日野町野氏より蒲生氏郷の乳母が出ています。



題名:汾陽寺と蒲生氏  名前:T/M 2016/12/15(木) 16:29 No.169  操作


乾徳山・汾陽寺(臨済宗妙心寺派   岐阜県関市武芸川八幡谷口)
嘉吉元年(1441)斎藤越前守利永の創建で、開基は雲谷和和尚 
延徳二年(1490)に斎藤新四郎利国がまた再建といわれています。
この雲谷玄祥(1402−1456)和尚、1446年犬山瑞泉寺の青龍山臥龍寺を建立しているのですが、臥龍寺の御住職のお話では近江日野蒲生氏出身とのことでした。最初は日野近くの永源寺(1361年創建開山 寂室元光  開祖 佐々木氏頼)で修行し、その後犬山へ。



題名:香焼寺(大野町)と後南朝?  名前:T/M 2016/12/14(水) 18:34 No.167  操作


御教示ありがとうございます。
「楠正成子孫?稲村ヶ崎だより」も拝見しています。
今まで私にとって長い間不明でした本田関谷氏のルーツの手がかりをようやく見つける事が出来ました。
香焼寺伝によると「楠用隆の次男用勝は越前朝倉氏に仕官し、河口庄、新口庄を知行 姓を関谷(或は関屋)と改め、カタバミの紋所をつける。」とあります。
明治初期においても関谷氏はすでに本田村の有力者であったようです。

美濃池田氏の伝承も了義寺野の件も調査はこれからです。
よろしくお願い致します。

  
 

題名:Re: 香焼寺(大野町)と後南朝?  名前:名無しさん 2016/12/15(木) 09:17 No.168  操作

女子プロゴルフツア−の解説で活躍されている森口裕子プロのご主人関谷氏から楠木氏との関わりを以前から聞いておりました。しかし、本当のところは疑問視していましたが香焼寺伝について教えて頂きましたので少し見方が変わりました。
近日、忘年会で関谷氏と同席する予定ですので話題にさせて頂きたいと思います。ありがとうございました。



題名:香焼寺(大野町)と後南朝?  名前:T/M 2016/12/11(日) 16:20 No.163  操作


mino阿弥様
ご無沙汰致しています。
揖斐郡大野町黒野にある香焼寺(浄土真宗本願寺派)の墓地には多くの馬渕家の墓があります。墓地を何度は拝見し、相羽のすぐ近くなので以前より気にはなっていたのですが、最近又いとこと話す機会があり、このお寺の16代御住職楠基道(衆議院議員 2区 立憲政友会 犬養内閣 )氏の母は本田馬淵氏の出という事がわかりました。現楠御住職は19代で、火事により以前の史料はないとのことでした。南朝方楠氏と美濃馬淵氏(馬渕氏)の間に何か関係があったのでしょうか?それともただ単に浄土真宗つながりかもしれません。




以下は楠正成関係のサイトより
「2011.02.08 アップ分」

楠精一郎氏(精一郎氏の祖父の兄が基道氏)家は、岐阜県揖斐郡大野町にある浄土真宗の寺、香焼寺から出ている。この家系は、楠木正成の子孫と称する。寺の16代住職であり、仏教大学教授や台北高等学校教授などを務めた楠基道が編纂した寺の沿革『香焼寺沿革史』(昭和12年)によれば、楠正成から7代目が南朝挙兵に失敗し、吉野から越前(福井)に逃れた。9代目はさらに越前から美濃(岐阜)に移り、既に天台宗の寺として存在していた香焼寺の住職となった。このとき浄土真宗に改宗した。文明6(1474)年、応仁の乱の頃であるという。
ただし、途中で三度ほど養子を迎えたりしている為、家系は正成の子孫であるが、血統的には絶えているという。

  
 

題名:Re: 香焼寺(大野町)と後南朝?  名前:名無しさん 2016/12/12(月) 12:06 No.164  操作

山県市長滝の伊自良湖近くに楠木正成の妻の墓とされる伝説があります。また、美濃池田氏には、楠木正行の子が池田氏を継いだとされる伝承があります。他にも遠祖は楠木氏とされる家系が見られますが確証がなく不明というほかありません。なぜこのような伝説が存在するのか興味深いところです。
  
 

題名:Re: 香焼寺(大野町)と後南朝?  名前:名無しさん 2016/12/13(火) 09:04 No.165  操作

インターネット上で「楠正成子孫?稲村ヶ崎だより」を見つけました。
  
 

題名:Re: 香焼寺(大野町)と後南朝?  名前:名無しさん 2016/12/13(火) 09:44 No.166  操作

了義寺(岐阜市椿洞)は、後醍醐天皇第十一皇子無文元選禅師開山であり、二代目住職即宗和尚は、楠木正成の血筋であるとされています。
了義寺には菊水の紋の香炉があるそうです。
現在、了義寺は無住であり霊松院(岐阜市岩崎)が兼務住職として管理されているようです。
楠木氏の伝承は、おそらく無文元選禅師に随伴して来た人々の中に楠木氏や伊予河野氏がいて、1370年前後にさかのぼるものではないかと推測しています。
土岐頼康が正法寺の開山を南朝方であろう臨済宗法燈派の嫩桂正栄としたことも、土岐氏が南北融和政策をとっていたのではないかと推測されます。
しかし、この土岐頼康の政策は、足利義満が土岐康行を討ち土岐氏の勢力を削ぐ伏線となったのではないかと思われます。
了義寺は、無文元選禅師開山の単なる寺院ではなく、亀山天皇皇女昭慶門院領(昭慶門院御領目録ご参考)に南朝方の人々が集結していた美濃における拠点であった可能性があり、のちに方広寺(浜松市引佐町・臨済宗方広寺派本山)に移ったものと思われます。



題名:無題  名前:名無しさん 2016/10/13(木) 13:40 No.162  操作


追伸 岐阜県図書館に「早矢仕家の歴史」早矢仕是雄著があります。
早矢仕氏系図として
通行ー林伴左衛門越知重通(美濃守護初代土岐頼貞奉仕)
通行ー林大助越知通高(美濃守護二代土岐頼遠奉仕)ー林孫太郎越知通氏(美濃守護三代土岐頼康奉仕)・・・早矢仕左衛門越知通重(早矢仕当流之元祖、美濃守護八代土岐成頼奉仕)ー早矢仕伴左衛門越知通辰(美濃守護九代土岐政房奉仕、美濃守護十代土岐頼純奉仕)ー早矢仕大助政元(美濃守護十一代土岐頼芸奉仕、大桑落城の時戦死ー早矢仕考右衛門通則(武儀郡エ退住居 笹賀・・・
三代守護土岐頼康から八代守護土岐成頼までの間は不明ですが、八代守護土岐成頼の時代に当流の元祖と書かれています。
この頃、元々の「林」から「早矢仕」とされたのではないかと
思われます。


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