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               2009年6月吉日
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題名:美濃源氏土岐氏研究講座…  名前:井澤康樹 2018/01/11(木) 09:51 No.271  HomePage 操作


271の画像を原寸大表示します 美濃源氏土岐氏研究講座で私、遂に講演をすることになりました !
2月3日(土)演題は 「土岐氏の時代に出名550年、岐陽・岐山・岐阜」!!
昨年、7月9日(日)岐阜命名シンポジウムで小和田哲男氏と対談!!!
その際に使用したPowerPoint資料をレジュメでも作成です!!!!
NHK歴史ヒストリアの脚本と、皇室への献上を目指して!!!!!



題名:桔梗紋  名前:井澤康樹 2017/11/27(月) 12:07 No.263  HomePage 操作


土岐祐奈さんも横浜茂木家も、共に桔梗紋です!
特に、土岐万木氏本家が土岐祐奈でありますから。

  
 

題名:Re: 桔梗紋  名前:呑舟 2017/12/05(火) 03:57 No.268  操作

返答ありがとうございます。

どうも下記の記事が気になります。

マンズワインはキッコーマンのワイン部門で茂木家が代表のようですが、出自を土岐家とはしますが、家紋を桔梗紋とはしません。記事の間違いでしょうか?それとも正紋を捨て改紋されたのか?
そうならば、野田茂木家の分家とされる横浜茂木家が桔梗紋を継承しているので謎ですね。

土岐万木本家が桔梗紋であることは確認していましたが、なぜ野田茂木家の正紋が桔梗紋でないのでしょうかね?




file:///C:/Users/Imamoto%20K/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/2V3LQT82/78_939.pdf

  
 

題名:野田茂木家家紋の記事  名前:呑舟 2017/12/05(火) 04:08 No.269  操作

〈醸 家銘 々伝 〉
山梨県 ・勝沼町
長野町・ 小諸市
マ ン ズ ワ イ ン
茂木一族の総本家である茂木七 左衡門家 は家紋 に蔓 柏
をいただ き,遠 祖は源頼光 の子孫 美濃土岐 の一族 で,寛
永 年代(1624〜1643)野 田の地 に留 ま り,茂 木家 を興 こ
した と伝え られてい る。爾来,現 十二代 茂木七 左衛門 マ
ンズワイ ン株 式会社 社長迄,綿 々と家系 が受 け継 がれ て
来 てい る。茂木家の家憲に 「徳は本な り,財 は末 な り,
本 未忘 る々勿かれ」 とあ り今 日で も誠 に厳 格に守 られ て
いる。
茂木家の始祖は寛文2年(1662)味 噌 の醸造 を始め,
さらに明和3年,醤 油の醸造を開始,後 に大正6年,一
族 八家の合同を経 て野田醤油株 式会社へ と発展,キ ッコ ーマ ン今 日の基礎が出来上が ったのである。昭和35年
のある 日,時 の常務取 締役,茂 木七衡 門をかこみ一 「日
本 に 経 済力がつけば 遠か らず 世界 の酒が 押 し寄せ て く
る。キ ッコーマ ンの醸造技 術を生か し正統 派の ワイ ンを
作 っておかねばな らないであろ う……」 と。 これが 当時
「しょうゆ」 を主軸 に経営 の多角化 を推進 して いた キ ッ
コーマ ンの経 営に大 きく寄 与出来る との確信を得 て,直
ちに技術 者を海 外に派遣,一 方 国内に於 いても葡 萄栽培,
醸 造の適地 の調査が進 め られ,気 象,土 壌等各分野 の調
査,研 究が続 け られ た。
昭和37年10月 「日本 の風土か ら日本 の ワイ ンを」
とい う信 条の下,マ ンズ ワイ ン株 式会社が設立 され,山
梨県勝沼町に拠点を定め ワインづ く りに着 手,39年10
月,東 京 オ リンピックの開催 を記念 し,発 売 に踏み切 っ
た。
マ ンズワイ ンの 「マ ンズ」 とは旧約聖書 の出 エジプ ト
記 第16章 にある 「聖糧」一 マナー(MANNE)"天 か ら
恵 まれた糧"と い う 意味 の ラ テ ン語 と キ ッコーマ ン
(KIKKOMAN)の マンに由来 してい る。
41年 にはマ ンズ ワイ ンの品質 を世界 に 問 うべ くブタ
ペス トで開催 された国際 ワイ ンコンクールに出品,世 界
の銘醸 ワイ ンに伍 してわが国初 の金賞 を受賞。
42年,「 甲州 葡萄か らは並 酒 しか 出来 ない」 とい う従
来の常識に挑戦,優 良酵母の撰択,密 閉型 グラスライニ
ングタンクに よる低 温発酵,還 元的熟成 などの独 自の醸
造 法の開発に より,シ ル クロー ドを経 て仏教 と共 に伝わ
り,日 本の風 土に生 き続 けてきた 甲州葡萄 の繊細 で軽や
か な特質を引 き出 し,坂 口謹一郎先生か ら評価をいただ
いた 「マンズ 甲州1967」 に 結晶 させる ことが出来 た。
43年,山 梨市万 力山に実験農場 「万寿農場 」を開設 。
45年 「日本万 国博覧会」に キ ッコーマ ン グ ル ー プ
は「水中 レス トラン」を設営,マ ンズワイ ンは 和牛 ステ ーキと しょう油の風味 とともに内外の御客様 に好評 を博
した。
46年,日 本での醸造専用葡 萄 の 栽培について国と県
の要請を受け,か ね て調査中 の善光寺葡萄を長野県千 曲
川流域で,ま た撰抜 された欧州系葡萄を福島県南会 津で
契約栽培を開始 した。
また この年 万寿農場 で貴腐葡萄 が収穫 され話題をさら
った。
さらに47年0.1.V.主 催 の国際 ワイ ンコン クールで
金賞受賞,品 質の高 さを証 明 した。
翌48年 には善光寺葡萄 の栽培地を背景 に小諸 ワイナ
リーを創設,こ こで 醸造 さ れ た 「マ ンズ ・ヴィンテー
ジ ・善光寺」 は国際 ワイ ンコ ンクールで金賞 を受け ると
共 に,ボ ル ドー大学のP.リ ベロー ・ガイヨ ン教授か ら
〈フ ィネス〉 と評価 を うけ ることとな った。
53年,風 土 の ワイ ンの集大成 「マ ンズ ・ハーベス ト」
を発売。
そ して57年,長 年 に亘 る研究成果の一端 として葡萄
のウイル ス ・フリー化 について国際植物組織培養会議に
発表,新 品種,「 シ ャル ドネ ・ドウ ・コライユ」 を 誕 生
させた。
茂木七左衛 門社長 は戦後わが国 ワイン業の発展 の基礎
を創 り,今 日の ワイ ン ・ブームを招来 し,業 界に貢献 し
た一人に数え られ よ う。(飯 田祐弘記 ・禁転載)
第78巻 第12号



題名:福島克彦氏  名前:名無しさん 2017/12/04(月) 09:27 No.267  操作


12月3日、「中世大山崎の油販売と斎藤道三油売説について」というタイトルで大山崎町歴史資料館館長の福島克彦氏の講演があった。
大山崎神人には特定の名字があり松波姓は見られない。
振売、搾油は名字を持たないものが行っていた。
13〜14世紀より、美濃尾張では大山崎の油売りが活動し京都と美濃の行き来は頻繁にあったそうである。大山崎神人は、さまざまな商品を取り扱っており侍衆など守護内衆も「油商売」を行っていた。
しかし、そのような背景があるにしても斎藤道三の油売説は史料が見当たらないため不明というほかないようだ。

「明智光秀:史料で読む戦国史」福島克彦氏、藤田達生氏著などがある。

福島先生にはご遠方のところお越し頂き、ご講演ありがとうございました。




題名:西池田頼宗 3  名前:T/M 2017/11/30(木) 10:41 No.266  操作


室町幕府御教書に「三宅左衛門」という名前が見受けられた観応3年(1352年)と西池田頼宗が芥川で死去したとされる文和元年(1352)6月はほぼ同年。
この時代は南北朝で後光厳天皇(北朝)後村上天皇(南朝)幕府は足利尊氏。
三宅左衛門が誰かまだ不明でありますが、頼宗は三宅左衛門のもとで死去したのでしょうか?



題名:西池田頼宗 2  名前:T/M 2017/11/29(水) 11:44 No.265  操作



ネットでの引用で申し訳ありませんが
三宅城(大阪府茨木市)について
「築城の時期は定かではないが、2つの説が言われている。1つは14世紀前半築城説で、『応仁記』によると文明3年(1470年)、東軍の総大将細川勝元方に属していた「三宅・吹田・茨木・芥川等の諸侍」が居たことが記載されている。これにより、更にさかのぼって観応3年(1352年)の室町幕府御教書に三宅左衛門という名前が見受けられ、代替三宅氏の居城として使用されていた可能性もある。もう1つは細川高国に命じられ、三宅国政が永正元年(1504年)に築城したという説である。」
この三宅氏が宮城系図にある三宅氏と近江市三宅城主三宅氏と同流か、つまり、宮城系図にある土岐西池田頼宗、三宅宗俊(宮城弥十郎)と
摂津国芥川茨木三宅氏ー近江三宅氏(近江永原流)ー)がつながるかどうかである。



題名:西池田頼宗 1  名前:T/M 2017/11/29(水) 10:58 No.264  操作


ご無沙汰致しています。
明智氏一族宮城家相伝系図にあります頼宗(頼清・頼藤 土岐頼貞次男)とされては晩年摂津国芥川の城に住み、62歳で当地で亡くなったと書かれています。芥川の城について調査してきましたが、この城は三宅城ではないかと思います。



題名:キッコーマン醤油は土岐醤油か?  名前:呑舟 2017/11/05(日) 00:55 No.259  操作


野田の醤油醸造家が、合同して「野田醤油株式会社」を設立し
後に「キッコーマン株式会社」となる。
その醸造家の一つの「茂木家」。

郷土史資料から。「野田の郷土史」他

「茂木家」は
美濃土岐氏の一族で、上総国万喜(木)城主の後裔とされる。
城主三世土岐頼春は、安房の里見氏と戦をして、負け
弟の万木(真木)頼徳と、一時身を隠した後
豊臣に仕えた。

「寿覚院盛林妙夏大姉」
茂木家の始祖とされる女性。
豊臣家側の随身、真木頼徳の側室。

「大阪夏の陣(1615)」において頼徳が戦死したので、
その女性は徳川からの豊臣残党狩を逃れるために、各地を放浪した後、
落ちついた地が野田である。
「真木」という姓を改め「茂木」とする。
初代、茂木七左衛門。 (茂木総本家)

1662年頃から、野田で味噌作りを始めた。
後に醤油に転換。

とあり、現在の茂木本家も同様なHPをUPする。

http://www.momoa.jp/about2.html

MINO阿弥さんが登場しなくなったので、投稿の機会がへりましたが、今回、上記の土岐頼春弟真木頼徳が豊臣方で敗北し下総
野田に流れて来たとする伝承を一次史料等で確認したく思いますが、どなたか詳しい方はいませんでしょうか?

以前の研究レポートでは山口純男さんが江戸崎土岐家の分家が萬喜土岐家であり天正18年落城後、土岐頼春公は行方不明とかで終わっていたかに思います。

キッコーマン醤油の社史では創業者の一人の茂木家は美濃源氏土岐家末裔としますので、醤油の世界一は土岐醤油となります。

  
 

題名:Re: キッコーマン醤油は土岐醤油か?  名前:井澤康樹 2017/11/21(火) 08:17 No.260  HomePage 操作

先日、土岐万木城主末裔のバイオリニスト土岐祐奈を、深沢亮子スーパーレッスンのゲストに呼んでコンサートを行いました。
その際に、横浜の茂木さんが参加され、KIKKOMANの分家であり、土岐万木氏子孫として続いている事を話して頂きました。
当然、呑舟さんの記事は今まで美濃源氏フォーラムのホームページで紹介したり、私の様々な活動の中で紹介しています。
但し、KIKKOMAN側から美濃源氏フォーラムへのアクセスは今までありませんし、一度本家を訪れましたが玄関先での会話で済んでいます。
もちろん、こんKIKKOMANか土岐万木氏の話は元千葉県市庁長(?)だった山口純男さんや、現在も県職員の鈴木佐さんからの情報でありました。

  
 

題名:Re: キッコーマン醤油は土岐醤油か?  名前:呑舟 2017/11/23(木) 09:34 No.261  操作

井澤康樹 様情報有り難うございます。

キッコーマン醤油創業家三家の内、茂木家は美濃土岐家末裔を自認されていますが、美濃土岐家の誰から分かれたのかがはっきり致しません。一般的には不明とされています。

萬木(真木)家三代説や九代説や、山口氏の言われるように、江戸崎土岐家分家説と色々あってよく分からないのが現状です。

一次史料がないことが紛乱の原因かと思われます。

茂木家HPで美濃土岐家末裔との記事につき証左確認を茂木本家に電話確認致しましたが、担当者の話では御当主様の家の中の事で史料はなにかは当主でないと分からないとの返事でした。HPに書いてあるのは社史を転用しただけでその根拠までは不明とのことでした。現当主はキッコーマンの会長ですので直接本人に確認する事は憚りました。現茂木本家とするのも、茂木系図を見ないと分かりませんが直流ではなく分家のようですので一次史料が伝わっていないのかも知れません。

キッコーマン三家は別々の家ですので系図もすべて違います。

土岐家末裔を自称する茂木家はあまり出自には関心がないのでしょう、よって、「美濃源氏フォーラム」の存在すら知らないものと思われますのでアクセスもしていないのでしょう。
キッコーマン本社社史編纂室はありますが、三家合同以降が編纂対象で個々の家史には直接踏み込まないないようです。千葉県野田市の市史も現在編纂中ですが、キッコーマンの合同三家の個別の史料蒐集はしていないとのことでした。
現在の野田市にとってキッコーマンの由緒は野田市創成の根本となると思うのですが、市史編纂委員は興味がないようです。
今、どこの教育委員会も同様で市町村史担当は冷や飯組と思っているのでしょうね。どこの教育委員会もレベルが各段に落ちていますね。

もう少し戦国時代の土岐系茂木家の動きが知りたいものです。

それと美濃土岐家の誰から分かれたかも特定したいものです。

  
 

題名:土岐茂木家家紋  名前:呑舟 2017/11/24(金) 10:29 No.262  操作

茂木家家紋は「蔓柏」と野田茂木本家は公表しているようです。

茂木家が真木姓から慶長年間以降に改姓したとする伝承の時、
土岐真木氏が使用していたとされる、「土岐桔梗紋」を茂木家は
「改紋」までしたのでしょうか?

もっとも名家は複数紋使用していることは知っていますが。

その経緯が知りたいもものです。


井澤 さん、バイオリニスト土岐祐奈家の家紋と横浜の茂木さんちの家紋はどのようになっているか聞いて頂けませんか?



題名:バンド  名前:名無しさん 2017/09/29(金) 12:32 No.254  操作


来年もう一度バンドを復活しようかと!
使い慣れたギブソン335は、10数年前に甥っ子にプレゼントしてしまい、コードも忘れた状態で我ながら無謀としか言いようがない。
調べてみるとフェンダームスタングGT200というライブ用の手ごろなアンプが発売されているようである。
ツインリバーブなどいろいろなアンプの音が組み込まれているようで、エフェクターは必要ないのか?
しかし、まずはギターを買わなくては。
ビンテージはとてつもなく高いので、アメリカンプロフェッショナルストラトキャスターという新しいギターが比較的値打ちである。
素人は、3万円のギターも30万のギターも同じと言われれば身もふたもないが。
認知症の予防に頑張ってみようか?


  
 

題名:Re: バンド  名前:井澤康樹 2017/10/02(月) 00:18 No.255  HomePage 操作

ボーカルは任せてくださいね♪("⌒∇⌒")
  
 

題名:Re: バンド  名前:名無しさん 2017/10/02(月) 10:59 No.256  操作

ザ・ゴールデンカップスの「長い髪の少女」をイメージすると、デイヴ平尾のパ−トがびったりだと思いますが。


題名:土橋重治宛て光秀書状  名前:名無しさん 2017/09/13(水) 14:17 No.253  操作


藤田達生氏の「土橋重治宛て光秀書状」の発見により、本能寺の変は室町幕府再興が目的という説を述べられ、大きく報道されました。

応永九年(1402)に、足利義満から進士九郎左衛門尉氏行は旗指の賞として美濃国厚見郡内井口二分方(武家二郎左衛門入道跡)を宛がわれています。
応永九年は、六代守護土岐頼益の頃だと思われます。
井口は稲葉山城下で守護代斎藤越前守宗円または子の斎藤利永が鎌倉以来の稲葉山城主二階堂氏を美濃加茂の方に追いやって、居城としていたはずです。
足利義満が、土岐、斎藤氏の頭越しに井口を進士氏に宛がったような感じです。
永禄の変(1565)で進士美作守晴舎は自害しましたが、遡る事160年ほど以前から進士氏の所領が美濃にあったことになります。
進士氏行と進士美作守晴舎の関係を示す史料や系図は見当たりませんが、幕府側近ということから家系を同じくするのではないかと思われます。
また、永禄十年(1567)に織田信長は岐阜城に入場したとの説がありますが、明智十兵衛ほか幕府重臣が、永禄十三年正月に濃州下向とする記事もあり、京から室町幕府側近達が信長詣でをしていたのではないかと推測されます。
明智光秀が室町幕府再興を目的としていたとするなら、土岐明智氏ではなく、光秀はもともと将軍側近であった家柄の人物ではないかとも考えられます。
いよいよ小林正信氏の明智光秀=進士説の出番のような感じがします。
明智十兵衛は在京して将軍そば近くにいて、また信長にも仕えていたということになります。
ついでに惟任日向守も、どのような事情で名乗ったのか不明です。
惟任、惟住(丹羽氏)は九州の名族だそうですが、その頃には絶えてしまった家系のように思われます。
何らかのメリットがあって称したのか、経緯は全く不明であり、言及されている研究者はいないのではないかと思います。
斎藤義龍、龍興は一色氏を称し重臣にも延永氏など一色氏家臣団の名前を名乗るようにさせていますが(龍興老臣連署状)、この時代においては姓氏を変えることが、さほど珍しいことではなかったように思われます。
そういう意味では全く血のつながらない人物が、突然他人の姓を冒すということもあり得たのではないかと思います。




題名:無題  名前:名無しさん 2017/09/07(木) 09:27 No.252  操作


HPの画面がスマ−トになり、ありがとうございます。

美濃明細記には、弘治元、二年のところに「義龍に味方する宗徒の輩」として明智十兵衛の名前が見られます。
斎藤義龍に明智一族は滅ぼされましたが、義龍側に光秀がいたとすれば生き残って当然のことになります。
光秀は、斎藤義龍に味方し明智一族滅亡に加担したことになります。
美濃明細記は、200年ほど後世に書かれた伝記ですから事実かどうかは不明です。
しかし、光秀一人生き残って明智家を再興したなどという通説のストーリーこそ小説の世界のようにも思われます。
果して真実は?







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