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               2009年6月吉日
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題名:明智氏一族宮城家相伝系図書 23   名前:T/M 2018/06/27(水) 07:53 No.325  操作


1)熊本県立図書館所蔵「雑撰録」所収の「清和源氏明智系図」にある喜多村氏は光秀と柘植城主喜多村保光・女との子「内治麻呂」のことだとされ、この系図は洛陽妙心寺住職玄琳によって作成され喜多村弥平兵衛(内治麻呂)に宛てられている。
内治麻呂 は喜多村弥平衛となり、江戸時代に町年寄として江戸市政に関与。
a)
内治麻呂は津軽(弘前)藩家老喜多村氏と姻戚関係があるか?
2)明智光秀の側室の子で山城国の神社に匿われた於づる丸・松寿丸子孫で、名字を明田と変えて明治時代に至った。 伝わっているのは、曾祖父の父・明田鉄太郎は津軽(弘前)藩士で能楽師の笛方

b)
明田鉄太郎の祖の笛方の師は誰か?そして藤田流につながるのか? 笛方藤田流は光秀老臣藤田氏と関係があるか?
3)
c)明智3 系図に登場する光秀の子とされる玄林の母は山岸→(堀)堀部氏につながるのか?
が今後の課題です。



題名:明智氏一族宮城家相伝系図書 22  名前:T/M 2018/06/26(火) 19:14 No.324  操作


明田」という地名で光秀ゆかりがありそうな所は京都府南丹市八木、京丹後市大宮町明田、大阪府高槻市明田町。明田氏の家紋は六つ梅鉢、割六つ梅鉢といった梅鉢紋とのこと。堀部一族にも梅鉢紋はあります。
八木の明田氏の菩提寺は「曹洞宗金龍山清源寺」。明田氏が八木に来たのは応仁の乱での敗戦からであるという。あくまで推論でありますが、誰かを頼って高槻市明田から移住した可能性があります。ところで、高槻市「明田」は「宮城系図」にある西池田の祖時頼宗(頼清)が遠征途中亡くなった「芥川」の目と鼻の先にあります。そして、三宅城跡は近くにはありますが、お隣の茨木市で関係はあると考えていますが更なる調査が必要です。
今まで長々と投稿し申し訳ありません。
光秀子孫周辺を調査していても当然あがってきそうな「奉公衆進士氏」の名があがってきません。 もう少しがんばって調査を続けてみます。



題名:明智氏一族宮城家相伝系図書 21  名前:T/M 2018/06/26(火) 15:03 No.323  操作


山鹿素行(母は岡備後守女)が誕生した元和8(1622)年、父山鹿貞以は関一政(1564ー1625)の家臣から同僚を斬ったかどで、会津の町野幸仍を頼り食客になっていたといわれます。幸仍(ゆきより 安井吉秀次男 ?ー1628)の子幸和(ゆきかず1574−1647)の妻は牧村利貞の娘のおなあ(1588−1675のちの祖心尼)。斎藤利宗(1567ー1647 齊藤利三3男 母は稲葉一鉄娘 あん)の三男・幸長(1617ー1701)を養子としています。幸仍(繁仍)の妻は蒲生氏郷の乳母で蒲生氏郷と幸和とは乳兄弟という間柄でした。幸和は本能寺の変(1582)の直後には氏郷と共に日野城に籠城しており光秀とは敵側であったようです。柘植三方衆の一角北村(喜多村?)氏は1487年福地、日置氏と共に六角高頼と同盟を結んでいる。


題名:明智氏一族宮城家相伝系図書 20  名前:T/M 2018/06/25(月) 18:32 No.322  操作


熊本県立図書館所蔵「雑撰録」所収の「清和源氏明智系図」にある喜多村氏は光秀と柘植城主喜多村保光・女との子「内治麻呂」のことだとされ、この系図は洛陽妙心寺住職玄琳によって作成され喜多村弥平兵衛(内治麻呂)に宛てられている。
ところで、江戸時代前期の弘前藩家老に喜多村 宗則(1646−1710)がいる。祖父は北村宗統、父は北村宗好・宗容?(1629−1692)で、「宗」の通字からして松尾芭蕉の師北村季吟の祖父「宗龍」の一族かと思われる。宗龍は医を曲直瀬道三に、連歌を里村紹巴に学び、道三の推挙により一時毛利元就の八男元康の侍医となっている。後北村に戻り、医業の傍らで永原天神連歌宗匠として野洲郡一体の連歌指導に勤めたとされている。また宗則は「山鹿素行」に師事した弘前藩4代藩主津軽信政(1646− 1710 娘には堀親賢正室がいる)に寵愛され「喜多村」と改姓するよう命じられ、素行の三女鶴と江戸にて婚姻している。



題名:明智氏一族宮城家相伝系図書 19   名前:T/M 2018/06/21(木) 19:35 No.321  操作




明智光秀の側室の子「於づる丸」の子孫とされる「明田利右衛門」は今から250年頃前弘前藩士で能楽師の笛方だったとのこと。
1)弘前藩と言えば津軽氏
津軽氏と本能寺の変の黒幕説もある近衛前久をつなぐものに大浦政信・近衛尚通の落胤説があり江戸時代に津軽信義は寛永18年(1641年)『寛永諸家系図伝』編纂の際に、近衛家に対して津軽家系図への認証を求め、近衛家当主近衛信尋から、大浦政信は近衛尚通の猶子であると認められたとあります。又、大浦政信が近衛尚通の落胤だという伝承にちなみ、為信は早くから近衛家に接近して折々に金品や米などの贈物をしており、上洛した際に元関白近衛前久を訪れ「自分は前久公の祖父・尚通殿が奥州遊歴なされた際の落胤」と主張し、又近衛前久は、為信からの財政支援増額により為信も猶子にした。とあります。
2)能楽 笛 藤田流(名古屋市)は檜垣本彦兵衛→
「馬淵頼元」→「下川重次」→「藤田清兵衛(藤田流初代)」という形で現代に伝わっています。清兵衛は母方の叔父である「沢庵和尚」の世話により誕生の地丹波・出石を出て、和尚の堺南宗寺に住み(1614年13歳)、その後、「近衛信尋」に奉見仕官(1617年)しています。
信尋公より下川丹波守重次(丹州)を笛の師として定めよと拝命を受け、
そ清兵衛は禁裏の笛役者として近衛家に仕え、その後、尾張徳川家初代義直の希望で清兵衛は尾張に移り(1629年)十一世藤田六郎兵衛氏に至っています
3)馬淵重時は近衛信尋に仕え、その子「易重」は「松平直政」に「正重」は「松平直矩」に「信重」は「松平直基」に仕えています。



題名:明智氏一族宮城家相伝系図書 18  名前:T/M 2018/06/16(土) 18:04 No.320  操作


進士晴舎の晴は足利義晴からの偏諱
進士輝舎の輝は足利義輝からの偏諱
進士九郎三郎賢光、進士光賢の賢は六角 義賢からの
偏諱では?。と考えています。
足利義輝(1536−1565)は六角定頼(1495−1552)を鳥帽子親として元服、六角 義賢 (承禎 1521−1589)はその嫡男。
  義賢 の正室:畠山義総娘(姉)
      継室: 畠山義総娘(妹)

山岸信周の正室:明智光継娘 (姉 25歳没)
       子 進士光賢、明智光秀。
     継室: 明智光継娘 (妹)
       子 進士作左衛門貞連、安田国継。
 なんかよく似てますね?



題名:無題  名前:T/M 2018/06/16(土) 15:22 No.319  操作


城系図も山崎片家(1547−1591)の室が明智光秀(1528−1540)の娘であることが実証されれば、なぜ宮城家に伝承されたかは難しい事ではないと思います。しかしまだ確認出来ていません。
光秀19歳前だったら片家室(光秀女)は年上、後なら年下。
この系図をはじめ、光秀、その子に関係しているだろう多くの事を調べていくと多賀・佐目を中心とした半径10km前後の範囲以内に収まります。例えば山崎氏の居城とされる山崎城(彦根市清崎町)、光秀出生地とされる上石津多羅、など。



題名:明智氏一族宮城家相伝系図書  名前:名無しさん 2018/06/15(金) 12:23 No.318  操作


「熊本安国寺土岐系図」には、
山岸信周の子として進士美作守晴舎、山岸勘解由信舎、進士九郎三郎賢光、明智光秀。
進士美作守晴舎の子として、進士輝舎、進士作左衛門貞連、進士貞則、安田作兵衛国継。(その他に小侍従がいるはずです。)
明智光秀の子晴光は進士輝舎の猶子

「明智氏一族宮城家相伝系図書」には
山岸信周と明智光継の娘で(姉)との子供に
進士光賢、明智光秀。
先妻は、25才で亡くなったようで
山岸信周の後妻として明智光継の娘で姉没後に(妹)が嫁ぎ
その子供が、進士作左衛門貞連、安田国継。
とされています。

この系図は、本当にわかりません。

姓氏家系大辞典には、小林正信氏説の進士源十郎藤延も見られます。
また、加賀藩給帳には、620石(丸内三桐)進士斎宮、100石(紋同)進士源五郎など見られ、進士美作守の後裔らしき進士氏も見られますが、他に詳しい史料も見当たらずわかりません。
進士家の詳しい系図や古文書などが残っていれば、学問的な真偽はともかくとして系図記載の経緯が、ある程度は解明できるのではないかと思います。
なにより、進士美作守晴舎の進士家と美濃の進士山岸氏を関係づける史料が全くないことが大きな疑問です。




題名:明智氏一族宮城家相伝系図書17  名前:T/M 2018/06/15(金) 07:58 No.317  操作


 曲直瀬道三の父は堀部左兵衛親真または勝部村(現・滋賀県守山市)の勝部氏、母は多賀氏か目賀田攝津守綱清の娘とされています(近江栗太郡志)。近江源氏佐々木氏ゆかりの人物です。両親は生まれたその年に亡くなり、伯母に育てられたようです。諱は正慶。玄朔 正琳 岡本玄琳など一門に 玄、琳の文字が目につきます。一門以外玄琳を「名乗る人物は多くいますので何とも言えませんが、、、、、。曲直瀬家は後橘姓を名乗りますが、宮城系図にある光秀の替紋
は丸に橘です。 関係があるのでしょうか?



題名:明智氏一族宮城家相伝系図書16  名前:T/M 2018/06/14(木) 16:48 No.316  操作


室町時代初期の近江猿楽座は上三座・下三座の6座があったようです。
上三座は長浜市山階の山階座,下坂座,大津市坂本近辺の比叡座の3座。
下三座は犬上郡多賀町の敏満寺(みまじ)座,蒲生郡蒲生町の大森座,甲賀郡水口町の酒人(さかうど)座です。
明智氏系図に関係するのは山階座と敏満寺座です。共に光秀生誕伝承のある佐目のすぐ近くです。しかも光秀の長男・松寿丸の子孫とされる明田氏は能管(笛)の名手で、津軽藩士の一族から徳川幕府の能役者山階滝五郎に嫁した女性もいたようです。


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