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題名:無題 名前:T/M
2018/06/29(Fri) 06:56 No.326 


玄琳は光秀死天正10年(1582)から50年過ぎた寛永八辛 (1631)、喜多村弥平兵衛に手紙(明智系図)をしたためた。
そして43年後の延宝二年(1674)11月                 
弘前城の本丸に能舞台が建て られ、能が催された。
内容は
同月2日に、正面の菊の間に殿様・信政公と、分家黒石の領 主・津軽左京、幕府からの預かり人・柳川素庵、藩主・信政の 兄弟・津軽庄右衛門兵庫が着座。 東の方に屏風を立てて殿様の弟方、御物頭、御物奉行、医者、 そして御一門と重臣の面々が着座した。 招待された皆々からの進物の披露があり、殿様から一同に御 料理、御菓子、御茶などが振る舞われている。 午前七時ごろに始まり、午後六時ごろに終わっている。 お能の曲目は『翁』『千歳』に始まり九曲、狂言は『末広が り』以下五曲である。 翌三日には二日目のお能が催され、殿様の生母・久祥院はじ め、御先代・信義公の側室、重臣の妻や母なども招かれている 町人も招かれた。 御能組み合わせの次第によると 笛  「市郎右衛門 ・ 五郎右衛門 」の名が見られる。この2名明田氏につながるかどうか。
また明田(明智)氏が旧掲示板に登場されたのは2005年頃の頃かと思います。
津軽土岐氏との関係も澤源様はじめ多くのからがかなり調査されています。


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