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               2009年6月吉日
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題名:光秀の室・煕子の基本検証について  名前:Tm. 2018/11/17(土) 11:44 No.383  操作


光秀の室については妻木範熙の娘で名前は煕子というのが通説となっていますが、それを確認できる最も古い文献はなんでしょうか。

wikiにある『美濃国諸旧記』(正保・1645-1648頃ヵ)だとするなら、そこには前妻として山岸信光の娘の千草の存在も記されており、それを無視して「煕子」のみを光秀唯一の妻であったかのように論じるのは問題だと言わざるを得ません。
もっとも『諸旧記』以前に「煕子」の伝承が存在していて、そこへ「千草」の件が挿入されという可能性も否定はできませんが、『諸旧記』にも「妻木範熙の女」とあるのみで「煕子」という名前は記されていません。

それについて、wikiには《『明智軍記』(元禄・1688-1704)によると》とあるのですが、刊行本の人名索引にも「煕子」の名は無く、本文では「範熙ガ娘」「妻室」と記されているのみのようです。『絵本太功記』(寛政9年・1797)には「照子」とあり、「煕子」の誤記あるいは仮名とみられることから、それ以前には遡れるものと思われます。

そもそも「煕子」という名前については、「当時らしからぬもの」として信憑性には疑問が持たれていますが、基本的な検証がなおざりのままに人口に膾炙していると言わざるを得ません。

  
 

題名:Re: 光秀の室・煕子の基本検証について  名前:戦国未来 2018/11/17(土) 23:01 No.385  HomePage 操作

>『絵本太功記』(寛政9年・1797)には「照子」とあり
『系図纂要』では、父親の名を「妻木範煕」ではなく、「妻木範照」としています。

>「煕子」という名前については、「当時らしからぬもの」
「〜子」は正式名称のようですね。

『明智氏血脈山岸家相伝系図書』では、「お牧の方」、明智光秀の養母(光綱の妻)は「美佐保の方」としています。



題名:無題  名前:名無しさん 2018/11/17(土) 14:21 No.384  操作


(明智一族三宅家の史料)から想像すると
ガラシャ夫人の小侍従が、光秀の姪で養女(実は進士美作守晴舎の娘)
姪であれば、光秀は美作守晴舎の兄弟か?

しかし、小林正信説は晴舎の子藤延が光秀とされているので、足利義輝の側室小侍従は光秀の妹か?

足利義輝の側室小侍従は進士美作守晴舎の娘。
小侍従が逃れて生き残り、足利義輝の忘れ形見尾池義辰が生まれたと仮定すると?
そんな小説みたいな事は、ありませんか?

進士氏、山岸氏の史料などが発掘できればと期待するばかりです。



題名:尾池義辰  名前:名無しさん 2018/11/16(金) 17:22 No.382  操作


細川忠利は、足利義輝の忘れ形見尾池義辰を客将として庇護しており、熊本に足利義輝、進士、明智光秀の関係者が集まっていたような感じです。


題名:明智一族三宅家の史料  名前:名無しさん 2018/11/16(金) 14:19 No.381  操作


(641頁)
小侍従の家を立てられしは平田彦三也、今府の新町に有り、家系有り。(やはりガラシャ夫人の小侍従と解釈した方が良さそうです)

(645頁)
系図には、光秀の子として
女子(井戸左馬助利政の室、同新右衛門利親の母)この女子、実は進士美作守晴舎の娘にて光秀の姪也、光秀の養女として利政に嫁す、井戸は和州筒井の一族にて山城国久世郡宇治槙島の城主也、利親は関東御旗本に召し出される。

史料記載のように、進士晴舎の娘が光秀の姪であれば、光秀は進士氏である可能性もあり、小林正信説を裏付けることにもなります。
わけがわからなくなりそうですから、この辺でやめておきます。




題名:明巌梵徹  名前:名無しさん 2018/11/16(金) 12:05 No.380  操作


「明智一族三宅家の史料」641頁
安国寺開祖梵徹和尚は小侍従の弟
小侍従は秀林院殿の別腹の御妹
秀林院=細川ガラシャ
(小侍従はガラシャの侍女としての小侍従か、進士晴舎の娘か?)

しかし、史料記載のように小侍従が細川ガラシャの別腹の妹であれば光秀の娘であり、梵徹和尚が小侍従の弟であれば光秀の子ということになります。

肥後泰平山安国寺は細川忠利が小倉から熊本に入国した際、同行した小倉安国寺の明巌梵徹和尚を弘真寺の住職とし山号を泰平山、寺号を安国寺に改称した。(忠利は小倉に安国寺を建立している)
熊本には、三宅家始め明智光秀につながる方々が命脈を保っておられたようです。



題名:電子版歴史研究  名前:名無しさん 2018/11/14(水) 15:04 No.377  操作


「激動戦国を生き抜いた明智光秀の長子光慶」というタイトルで
谷本英子さん(岐阜県可児市在住)という方が寄稿されています。
谷本さんは、明智光秀、光慶の直系の末裔とのことです。
ご参考まで。

  
 

題名:Re: 電子版歴史研究  名前:戦国未来 2018/11/14(水) 20:57 No.378  HomePage 操作

興味深い話ですね。
http://www.rekishikan.com/denshiban/kawara/kawara2017-05-31.html

  
 

題名:Re: 電子版歴史研究  名前:名無しさん 2018/11/15(木) 17:20 No.379  操作

失礼ですが、にわかに信じがたい話です。
斎藤利三の子斎藤利宗や三宅氏なども変後に仕官していますから、光慶または子孫であれば仕官の道または加藤、細川氏の庇護を受けることもあり得ます。
出家、帰農したとしても、何らかの史料に残っているのではないかと思います。
「明智一族三宅家の史料」には、光慶は三宅重時の子で母は明智光秀姉なりと書かれています。
いろいろと疑問はあり検証できないのは残念ですが、ご本人は一子相伝の伝承を語られているようですから、真実を述べられているのではないかと思います。




題名:無題  名前:名無しさん 2018/11/14(水) 10:30 No.376  操作


「美濃源氏フォーラム」の12月の忘年会は、近くの「文化屋」でしたが、今年は岐阜市則竹にあるイタリアン「ペコリ−ノ」になりそうです。
この店のピザは都会的な感じがして市内ではおいしさ上位だと思います。
私は、いつもながら歴史講座は聞いてませんので食べに行くだけですが、地元の人しか知らない店でおすすめです。



題名:明智孫十郎  名前:戦国未来 2018/11/11(日) 18:21 No.369  HomePage 操作


現在、明智孫十郎について調査中!
情報下さい!!

  
 

題名:Re: 明智孫十郎  名前:名無しさん 2018/11/12(月) 13:18 No.370  操作

ウィキペディアなどには、岐阜県山県市に明智孫十郎の墓があり本姓は恩田氏とされていますが、よくわかりません。

「明智一族三宅家の史料」には
明智光俊(光春・後妻日向守長女)の弟として
「光景」明智次郎八、三宅孫十郎と号す。
兄とともに日向守光秀に仕える、入四手組衆の内
天正十年六月二日京都二条城攻めの時戦死す。年四十二歳
と書かれています。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」には同様の内容で
天文九年生。子孫松平肥後守正之家に在りなどと書かれています。
インターネット上の書き込みとは違いますが、「光景」が明智孫十郎のような感じがします。

山県市には同様に明智光秀の墓もありますが、少し疑問です。

  
 

題名:Re: 明智孫十郎  名前:戦国未来 2018/11/12(月) 23:01 No.371  HomePage 操作

情報ありがとうございます。
山県市のお墓(実際は供養碑)の案内板には、「光秀の義弟」と書いてあった気がします。

  
 

題名:Re: 明智孫十郎  名前:戦国未来 2018/11/12(月) 23:12 No.372  HomePage 操作

私の調査では「妻の妹の夫」ということですが・・・恩田さんとか、郷土史家の加藤さんが詳しくご存知とか。

>山県市には同様に明智光秀の墓
2枚しか無いといわれている明智光秀の肖像画の1枚があるそうですが、今度のお祭りの日に公開されるのでしょうか?

  
 

題名:Re: 明智孫十郎  名前:名無しさん 2018/11/13(火) 11:01 No.373  操作

山県市の明智光秀伝説については詳しく知りません。
「美濃源氏フォーラム」には明智光秀後裔とされる荒深氏も参加されたことがありますから直接聞かれたら如何かと思います。
私も名刺交換したことがありますが、荒深氏と面談ご希望であれば、井澤康樹理事長を通してコンタクトされたら如何かと思います。
山県市は、大桑城跡もあり、南泉寺、武儀川を越えたところに
斎藤利永開基の汾陽寺、斎藤利国の妻で京都妙心寺中興の祖とされる利貞尼の法泉寺、近くには春日局が一時期隠棲していた所もあります。
少し離れていますが伊自良湖近くには楠木正成夫人とされる方の墓もあります。
伊自良湖近くの甘南美寺は、大阪府富田林甘南備に久子夫人が一族の菩提を弔った楠妣庵観音寺があり、甘南美寺は富田林甘南備の地名にあやかったものではないかと推測されます。
脇屋義助など南朝勢力が一時期根尾谷辺りに居たことや伊自良氏も南朝ですから楠木氏に味方した人々が逃れて来ていた可能性もありますが、確実な史料がないため伝説という形で残っています。

いずれにしても、山県市は歴史的に大変興味深い地ですから、歴史探訪にはおすすめです。

  
 

題名:Re: 明智孫十郎  名前:戦国未来 2018/11/18(日) 02:56 No.374  HomePage 操作

>ウィキペディアなどには
ウィキペディアは、参考にはなりますが、私が知りたい続柄については「明智光秀の義弟と言うが、続柄は不明」と書いてあってがっかりだし、永禄8年生まれ、天正10年没で、享年18だなんて、とんでもないことが書かれていて(何を見て書いたんだろう?)享年42のはず。18歳というのは、は安藤氏の四国山城(四国山香りの森公園)を落とした褒美で領地が増えた歳かと。

>直接聞かれたら如何かと思います。
ですよね。それが出来れば最高です!

>いずれにしても、山県市は歴史的に大変興味深い地ですから、歴史探訪にはおすすめです。
ですよね。数日前に山県市観光協会にメールしたのですが、未だ返事なしです。

  
 

題名:Re: 明智孫十郎  名前:名無しさん 2018/11/13(火) 22:28 No.375  操作

よく調べておられるので驚きました。
光秀伝説は諸説ありますが、伝説を追及すると推理小説の世界に入り込んでしまうような感じがします。
観光協会は、観光振興が目的ですから研究とはほど遠い存在ではないかと思います。
系図は錯誤やあり得ない荒唐無稽な系図などもありますから注意が必要と思います。





題名:妻木頼知について  名前:Tm. 2018/10/27(土) 07:31 No.366  操作


渡辺俊典さんの著書の妻木氏の系図に、広忠の弟として「頼知 長兵衛 信忠に従い本能寺変ニ戦死」との記載がありますが、本文中では触れられていません。
何に基づくものか、出典などご存知の方はいらっしゃいますでしょうか?

  
 

題名:Re: 妻木頼知について  名前:名無しさん 2018/10/29(月) 11:58 No.367  操作

頼基-頼重-頼篤-国篤-頼秋-頼照(妻木氏祖実は次兄頼秀ト共ニ頼秋ノ弟)-頼俊-弘定-広俊-広美-頼安-頼知

土岐頼貞の兄とされる蜂屋定親が嘉元の乱(1305年)で北条宗方に味方し北条時村を討っていますが、後に誅されています。
「嘉元の乱」自体がどのような理由で起きたのか諸説ありますが不明です。
渡辺俊典氏著書には、「兄定親が母方の宗方に味方して」と書かれています。
宗方の父は北条宗頼であり、定親の母は北条宗頼に関わる人物かとも推測されますが、出典がわからないため残念です。
土岐系図には蜂屋定親と土岐頼貞の母は北条貞時女とありますが、明らかな誤りです。
土岐頼基(明智氏)の母は北条宗頼女と書かれています。
定親の母は、一代違いますから宗頼の娘ではなく宗頼の姉妹にあたる人物であろうかとも推測されますが、わかりません。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」には土岐頼貞の母は北条経時女とあり、「北条貞時女是誤也」とはっきり書かれています。
しかし、これは土岐頼貞の父とされる光包の妻が北条経時女と書かれているための系図上の母ではないかと思われます。
土岐頼貞は、実は土岐光定の六男也と書かれていますから母は別人だと思います。
土岐光包の母は宝治合戦で滅亡した三浦義村女と書かれていますが、土岐光定の妻として別に北条氏の娘もいたのではないかと思います。
美濃守護であったこともある北条時村を、なぜ討ったのか北条氏の内訌は不明ですが、「嘉元の乱」がきっかけで土岐氏相続に何らかの大きな影響があったのではないかと思います。
また、一般的な土岐系図には書かれていない「光包」は実在の人物かどうかも不明ですが、土岐系図は光定-光包(?)で一旦切れていると見ることもできます。

脱線しましたが、渡辺俊典氏の土岐氏研究の功績は大なるものですが、学問的には出典等もわからず残念としか言いようがありません。

  
 

題名:Re: 妻木頼知について  名前:戦国未来 2018/11/11(日) 18:20 No.368  HomePage 操作

妻木氏(舟木氏)は謎ですね。
中絶したので、土岐頼範を招いて再興したって感じでしょうか?
妻木八幡宮の妻木系図は御覧になられましたか?



題名:戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」  名前:名無しさん 2018/10/26(金) 10:43 No.365  操作


戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」
という言葉が突然、頭に浮かんだ。

ネットでは、さまざまな解釈が述べられている。

今日では死語となり、日頃は考えたこともない言葉ではある。

父はラバウルで捕虜となり、無事帰還したおかげで
私と云う存在があるわけで、「戦陣訓」の歴史的背景
なども改めて考えてみたい。




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